室内汚染・シロアリ駆除剤にもどる
t04405#クロルピリホスのアメリカの基準について#95-12
 シロアリ駆除剤のクロルピリホスによる健康被害の例が目立っています。シロアリ駆除業者は、アメリカの基準が0.01mg/m3であり、室内汚染の濃度がこれより低いため健康被害は起こり得ないとして被害を認めようとしません。このアメリカの基準というのは全米科学アカデミー(以下アカデミー、National Academy of Science、略称NAS)が1982年に決めたものですが、どのような経緯で決められ、どのような数値なのかについて、アメリカで農薬や疫学の勉強をしている青木豊さんに説明していただきました。
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★全米科学アカデミーとはどんな団体?
 簡単にいって骨抜きにされる前の日本の学術会議のようなものだといっていいのではないでしょうか。科学者の自治のもとに成り立つ第三者機関で政府に助言をし、公衆や学会に奉仕する団体です。てんとう虫情報20号から23号までに掲載された「乳幼児及び子供の食物中の農薬」はこの団体の「環境学と毒性学委員会」がまとめたものです。政府の耳に痛いような提言もきちんとする団体といえます。
 この同じ委員会が1982年に「居住室内空気暫定指針値」を設定しました。(以下、「82年基準」と呼びます)。この指針値は同年発行の「シロアリ駆除に使われる7農薬に伴う健康被害の評価予測」という全72ページの文書で公にされています。
★潜水艦乗務員の基準がもとに
 82年基準は1978年に出された海軍潜水艦乗組員のための基準がもとになっています。この潜水艦乗組員用基準は90日間の連続曝露を対象とし0.1mg/m3と決められています。
 82年基準は、主に家族も住む兵員住宅での3年未満の曝露を対象としており、潜水艦内基準を1/10にするという形でさだめられました。1/10にする理由は兵員住宅の住人には潜水艦乗組員よりも弱い者が含まれるからだ、としています。  以下に82年基準についての説明をそのまま抜き書きしましょう。「基準」の代りに「曝露限度」(exposure limits)という言葉がここでは使われています。
★82年基準の勧告
 ここに提案する大気由来の曝露限度は兵員住宅における農薬使用に伴う健康影響(訳者注、原文ではrisk)を推定するための手引となるように作られた。これらの曝露限度は合衆国労働衛生局によってさだめられている(訳者注、法的)基準と混同されてはならず、絶対の安全を保障するものではない。現在までに得られている研究結果、そして、兵員住宅での長期間居住に関わる暴露の条件からして特に敏感な者も居住者に含まれる可能性があること、とを考慮にいれると(敏感な者とは、幼児のような一般にいって環境からの悪影響を被りやすい者を指す)、「これ以下ならば生物学的影響は現われない」といいきれるような曝露の規準値は7つのシロアリ駆除剤のどれ一つについても定めることはできないと委員会は結論した。
 曝露限度は健康影響を考慮して定められ、委員たちの総合した判断を反映している。基準を実際に達成することの難易については考慮しなかった。しかしながら、曝露を最小化するためあらゆる努力が払われなければならない。
 どのシロアリ駆除剤が兵員住宅での使用に最も適しているかを決定するためには、毒性と大気中基準だけでなく、曝露の程度と危険性に影響するすべての要素を考慮する必要がある。こうした要素の一部はこの報告中で触れられている。蒸気圧、環境中に残存する傾向の強さ、施用される物質の必要量などである。健康影響への知見が新たに得られるに従い、ここに提示されたガイドラインは遅滞なく再考される必要がある。
 (以下、クロルデンは0.005mg/m3、ヘプタクロールは0.002mg/m3、アルドリンとディルドリンは合計で0.001mg/m3、リンデンとペンタクロールについては設定せず、といった具合に基準とその設定理由が述べられていますが略します)
<クロルピリホス>
 本委員会は、潜水艦内の海軍乗組員の90日間連続曝露のための大気中クロルピリホスの基準として、100μg/m3を提案した。この基準は経口摂取の研究結果に基づいている。大気由来のクロルピリホスへの長期的な曝露の影響についての研究が見当たらず、本委員会は経口摂取を対象にした研究が入手しうる最善の情報であると結論し、それらに基づいてガイドラインを導いた。
 しかしながら、兵員住宅の住人は潜水 艦乗組員よりもずっと多様であるため、3年を越えない曝露について「暫定]指針値として10μg/m3を本委員会は提案する。本委員会は経口摂取から大気経由の曝露への外挿の限界を認識している。こうした限界として、たとえば多様な居住者の間での呼吸量の個人差が大きい可能性、吸入されたクロルピリホスの吸収係数を推定するための研究がいまだなされていないことなどがあげられる。しかし、 これが現在可能な最善の方法であると、本委員会は信じる。
 と、以上が勧告のクロルピリホスに関わる主な部分の抜き書きです。なお、100μg/m3、10μg/m3はそれぞれ0.1mg/m3、0.01mg/m3と同じことです。
★絶対の安全を保証したものではない
 読んでおわかりの通り、委員会は「これ以下なら絶対安全という基準は検討した7つのシロアリ駆除剤のどれひとつにも定めることはできない」としました。「絶対の安全を保証するものではない」のです。信頼できる研究はクロルピリホスの飲み込みによる身体影響を調べた研究があるだけで、それらを肺からの吸い込みによる影響にあてはめるには限界があることを認めています。
 さらに、呼吸量の差などのデータは十分ではなく、健康影響への新たな知見が得られたら、この基準は遅滞なく再考される必要があるともいっています。
 もう一点、暫定指針値がきめられた1982年当時には、最近示唆されている化学物質過敏症がクロルピリホスによりひきおこされる可能性については何もわかっていなかったことは明らかで、指針が化学物質過敏症の予防できるかどうかについては当然のことながら全く触れられていません。
★潜水艦内基準の根拠
 次に、82年基準のもとになった潜水艦内基準設定の根拠をもう少し詳しくみてみましょう。まず、人間での最大無作用量としてkg体重当たり一日当たり0.03mgを採用します。この量は成人男性が20日間飲んで血漿コリンエステラーゼの明らか低下がみられなかったのを含め、何も悪影響が観察されなかった人体実験の結果によります。
 そして、1日のあいだに乗組員は軽度から中度の労働に12時間従事し残りの時間は休養するとし、労働中の呼吸量(英語では呼吸率)は、毎分25リットル、休養中の呼吸量を同7リットルと仮定します。乗組員の体重を平均70kgとして、最大無作用量=吸入空気総量×曝露限度/体重の関係から暴露限度を計算します。
 曝露限度=最大無作用量×体重/(吸入空気総量)= 0.03×70/[(25×12+7×12)×60/1000]=0.09〜0.1mg/m3=100μg/m3
 と、潜水艦内の基準が求められました。 ★世界保健機構(WHO)の一日許容摂取量はアカデミー(NAS)の半分
 一方、世界保健機構(以下、WHO)は1972年に最大無作用量として0.014mg/kgを採用し、一日最大許容摂取量はその十分の一の(最後の桁の4をきりのよい5に変えて)0.0015mg/kgにしています。実はアカデミーもWHOも1972年にまとめられた未公表の同じ実験をもとにしているのです。
 一日当たりの摂取量が0.03mg/kgになるようにクロルピリホスの錠剤を4人の被験者に20日間飲ませた場合に幾分血漿コリンエステラーゼの値が下がりました。(ただし、下がり方の度合が偶然によるものと区別がつかないくらいの程度であったので、アカデミーはこれを「実は変化はなかったのだ」と判断して、最大無作用量を一日当り0.03mg/kgとしています(たびたび目にする「統計学的には有意でない」という決り文句は、観察結果が偶然によるものだという疑いがすてきれない場合に使われる言いまわしです)。
 一日当たりのクロルピリホス摂取量を0.0014mg/kgに下げて27日間飲ませた場合には、血漿コリンエステラーゼの低下は認められなかったのでWHOは「大事をとって」一日当り0.014mg/kgを最大無作用量としました。因みに「安全側にたって」という私の気に入りの決り文句はこういうことを指します。
 クロルピリホスは血球コリンエステラーゼよりも血漿コリンエステラーゼを強く阻害するので、この実験はより敏感な応答する指標を使っていることになります。変化が見られたのは血漿コリンエステラーゼだけで、行動(behaviour)、血液検査、尿検査、血液の生化学的検査のどれにも影響は現れていませんでした。一日当り0.10mg/kgを9日間与えられた被験者の間でもこれらはコリンエステラーゼが低下したことを除けばすべて正常でした。
 「最大無作用量」0.014mg/kgを安全係数の10でわって一日最大許容摂取量(ADI)が定められています。これの解釈がしにくいのは、血漿コリンエステラーゼが阻害されるということで実際にどんな悪影響があるのかが解らないことです。
 そもそも、血漿コリンエステラーゼがもともとからだの中でどんな役目を担っているのかまだ解明されていないのです。
 血球コリンエステラーゼの機能も解っていませんが、血球コリンエステラーゼは神経にある重要な働きをしているコリンエステラーゼと同じ分子構造であるので、血球コリンエステラーゼが阻害されていれば神経にも悪影響がでる可能性が高いだろう、と考えられて血球コリンエステラーゼの阻害は比較的重視されています。
 安全側にたって、実際悪影響と関係しているかは解らないが、血漿コリンエステラーゼの阻害は、なんらかの悪影響をもたらすかもしれないので避けるべきだ、という立場をとるのが賢明だと思います。 ★有機リンに弱い人には?  はたして0.0015mg/kgの一日摂取許容量で血漿コリンエステラーゼの阻害が防止できるのかどうか、という疑問が生じます。生物には個体差があるので、実験した4人では血漿コリンエステラーゼを下げなかった0.014mg/kgと同じだけをとりこんでも、「とりわけ有機リンに弱いひと」では血漿コリンエステラーゼが下がる可能性があるわけです。
 そのためいわゆる安全係数の1/10をかけるのですが、この慣習にはある程度の毒性学的根拠があるとされており、個体差は1/10をかけることによってだいたい手当ができる、ということになっています。この点で論議を挑んで「1/10では足りないんだ」と押し通そうとすると毒性学者の多数派を敵にまわすこと、味方は見つけにくいことを覚悟しなければなりません。とりあえずこの点はさわらないですますのが無難でしょう。
★1たす1は2、それとも1?!
 WHOとアカデミーの最大無作用量が違うことはどんなことを意味するのでしょう?
アカデミー
最大無作用量0.03 に安全係数1/10をかけると一日許容摂取量は 0.003
WHO
最大無作用量0.015に安全係数1/10をかけると一日許容摂取量は 0.0015
 となり、保健機構の判断を信ずるならば、アカデミーの限度の半分までいくと、もう許容摂取量を超えてしまうことになります。農薬残留基準についての同様の議論を思いだす方もいるでしょう。環境基準で往々にして問題になる、違う曝露経路からの寄与を足していくと、もとの許容摂取量を超えてしまう落し穴です。82年発表の勧告には(少くともクロルピリホスの部分には)この問題については触れられていません。
 WHOが低く許容値を定めているのは、統計学的には有意でない血漿コリンエステラーゼの阻害を示した投与量を「影響がある最低の投与量」として採用しているからです。これは安全側に立った判断ではありますが、科学としてはアカデミーの判断の方がむしろ客観的といえ、これを捉えてアカデミーを批判するのはちょっと酷な気もします。
 しかし、健全な常識を働かせてみましょう。たった4人にたかだか一月飲ませただけの実験結果をもとに何百万何千万(億かな)という人間が一生にわたってつきあわされるかもしれない基準値を決めるのは余りに大雑把に思えませんか?
 本来ならば、0.03mg/kgを最大無作用量として採用しようとするなら、観察された血漿コリンエステラーゼの低下が本当に偶然に過ぎなかったのだともっと自信をもっていえるよう実験をくりかえすなりするのが道理というものでしょう。
 何らかの確証が得られるまではWHOがしたように安全側に立ち無作用量を低めに見積るほうが納得がいきます。全米科学アカデミーの82年の勧告にはWHOの一日許容摂取量についての説明(弁明というべきか)は見当たりません。
 結論として、市民の立場で考えれば、「より安全側に立ったWHOの一日許容摂取量を採用したうえで摂取経路各々に負荷が振り分けられるべきだ」という主張には一定説得力があると思います。
★「毒性」と「必要性」について
 今回とり上げたような毒性についての論争では市民と企業の立場が平行線を辿ることが常です。その一つの理由は血漿コリンエステラーゼの生理的機能のように未解明な部分が私たちの身体には沢山あることがあげられます。
 もっと重要なこととして農薬を含む化学物質の健康影響について判断するのに必要な情報が企業や政府の手に握られていて市民の手に届きにくいことがあります。市民はこうした論争においては不利な立場にあるわけです。
 これを打開する一つのてだては政府や企業に情報の公開を求め必要に応じて義務づける制度を確立することですが、これには時間がかかりますね。もちろん粘り強く取り組まねばならない課題ですが……
 もうひとつ読者の皆さんと一緒に考えてみたいことがあります。毒性論争の行きつくところは、多くの場合市民側が善戦したとしてもより厳しい環境基準を守らせることに留まります。
 これは見方をかえると低い濃度であっても毒性物質を蔓延させるのを許すことに繋がってしまいます。そして低い濃度によってひきおこされる影響は原因を突き止めることが毒性学によっても疫学によっても難しく、困ったことに「低い濃度だから影響は軽い」とは限りません。潜伏期間の長いガンや、その実体も発症の仕組みもわかりにくい化学物質過敏症のような病気を考えればこのことは明らかでしょう。
 発想をかえたもう一つの働きかけの仕方として、泥沼の毒性論争を意図的に避けて問題の化学物質が本当に必要かどうかで論陣を張るのが有効な場合も結構多いのではないでしょうか? 具体的には毒性物質を使わないでも、ちゃんと「シロアリ予防ができるよ」「野菜が作れるよ」といったことを実行可能な対案によってどんどん示していくことです。「危険な農薬なんか使わずにこんなことを達成した」という話、これからも全国からどんどん届くのを一読者として大いに楽しみに待っています。
 今回の基準の根拠の話は「毒性論争にはまってしまった」好例で、たいへん解りにくく(41号編集後記に言われているような)固い話で申し訳ないです。
 まあ憶えておいて戴いて損はないかなと思うのは、全米科学アカデミーのお偉いさん方もクロルピリホスの基準は「絶対の安全を約束するものではない」とはっきりいっていること。自分の方だけに都合いいように基準を解釈して使うのはやめて下さいね、シロアリ防除業者の皆さん!(青木豊)

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作成:1998-04-01