内分泌撹乱物質にもどる
t06906#連載4 内分泌系撹乱物質が未来を奪う#97-10
4、ウイングスプレッド合意声明
 いままでに、リストアップされている70数種の内分泌系撹乱物質(次回以降で述べる)をみると、その半数以上は、すでに、動物実験や人の健康被害から、発癌性や催奇形性を示すことが判明して、環境毒物として問題視されているいわばお馴染みの化学物質ですが、ホルモン作用を乱す危険性については、あまり問題視されていませんでした。たとえば、DDTについては、1950年出版の論文にDDTがニワトリのホルモン系を乱すことに触れたものがありましたが、なぜかその後の研究者たちの注目をひいていません。
 その後のホルモンの作用機構の研究を踏まえ、コルボーンは、これらの化学物質の毒性が内分泌系の撹乱・破壊ににより発現している点に着目し、野生生物やヒトの体に起こっている種の保存にかかわる異常な現象を統合的にとらえ直す必要性を感じました。彼女は、科学者達に呼びかけ、1991年7月、アメリカのウイスコンシン州にあるウイングスプレッドで会議を開き、環境中に見出だされている内分泌系撹乱物質の影響について論議することにしました。
 その結果が「化学的にひき起された性の発達の異変:野生生物とヒトとの関連」という表題のもと、いわゆる「ウイングスプレッド合意声明」として発表されています。この声明は、その後のコルボーンらの研究活動の基礎となる重要なものですので、一部を紹介しておきます。
<科学者たちの提起>
 会議に参加した21人の科学者達は、「多くの数の環境中に放出された人工化学物質は、いくつかの天然化学物質と同じく、ヒトを含む野生動物の内分泌系を撹乱する潜在能力をもっており、多くの野生生物集団が、その影響を受けている」とし、「@問題となる化学物質は、胚や胎仔に成熟体とは異なる影響をあたえる。A影響は、それを被曝した親よりも子孫に多く現われる。B成長途上の生物への暴露のタイミングは、その性質や将来の潜在能力の決定に重要である。C危険な暴露が、胚の成長中におこっても、目に見える異常は成熟するまで現われないことがある。」、さらに「ヒトもこの内分泌系撹乱物質の影響を受けた。」として、DESの例をあげた上、「ヒトが、野生生物と同様、同じ環境ハザードによる危険にさらされている。」ことを確信しました。
 また、内分泌系撹乱物質の作用機構から「成長中の生物の内分泌系のどんな撹乱もその生物の成長を変えうる。典型的には、これらの影響は不可逆である。例えば、多くの性に関連する特徴は、成長の初期段階で、時の経過を追って、ホルモン的に決定される。ホルモンのバランスのわずかな変化によって影響され、性に関連する特徴は、一旦、印されると、不可逆的でありうるとの証拠がある。」と推定し、有機塩素系内分泌系撹乱物質についていえば、「野生生物に報告された繁殖への影響は、例えば、汚染魚のような同じ資源を食べているヒトでも懸念されるべきことであり、鳥類と哺乳類の内分泌系の発達の類似性が、野生生物とヒトの関連性を支持している。」としています。
 さらに、「ヒトに及ぼす暴露の影響の質と範囲は、十分に確定されていない」としながらも「規制を図るため、製品試験を拡大し、生体内でのホルモン活性を含めるようにすべきである。」こと、及び、「残留性化学物質の生産と使用の禁止は、暴露問題を解決してこなかった。環境中に既にある合成化学物質に対する暴露を減らし、かつ同様な特性をもつ新たな製品の放出を防ぐための、新しいアプローチが必要である。」と述べています。
 終りに、「寿命の長いヒトへの内分泌系撹乱物質の影響は、寿命の短い実験動物や野生生物種のように容易に見分けられないかも知れない。したがって、ヒトの生殖能力が低下しているかどうかを決めるのに、早期の検出方法が求められる。」とし、「肝臓酵素系活性によるスクリーニング、精子数、発育異常の解析、組織病理学的病変の検査」等の方法を用いることや「社会的及び行動的発達のより多くの、よりよい生物指標、個人とその子孫の多世代にわたる歴代記録の使用、生殖組織と母乳も含む生成物の同族体種化学分析」等の必要性を提起して締めくくられています。
<誤訳・迷訳がいっぱいの『奪われし未来』>
 ここで、本題から少しはずれて、先月末、翔泳社から発刊された『Our Stolen Future』の翻訳書『奪われし未来』について、触れなければなりません。
 同社が朝日新聞にだした『奪われし未来』の広告(環境関連図書にしては異例の大きさの19×17cm)の中で、「化学物質の危険性」とあるべきところ「科学物質」となっていることに、悪い予感を覚えて、早速、本を手にとってみると、カバーの著者略歴にコルボーンの所属が、世界自然保護基金となっているではありませんか。
この機関名はWorld Wide Fund for Natureの邦訳名です。原書には、彼女はWorld Wildlife Fund(世界野生生物基金)に属するとあります。世界野生生物基金は、イギリスのエジンバラ公を総裁とする世界自然保護基金の傘下組織であることは間違いないのですが、英語による機関名が異なる以上、正確な訳語を使わなければ、おかしいことになります。
 そして、本文を読み進めるうち、先の不審が、この書が一般向け科学書である原著の翻訳としては、ふさわしくない誤訳・迷訳に満ち溢れてたものであることの前兆にすぎないことがわかってきました。@専門用語訳が、日本での通り名と異なる。A原文にない意味のない修飾語句が挿入されている。反面B原文にある重要な語句が抜け落ちている。だけでなく、C文法的な間違いや、科学的記述の誤りも見受けられました。
 例えば、農薬名でお馴染みのディルドリンがジエルドリンと、クロルデンがクロルダンと、リンデンがリンダンと、ジコホールがディコフォルと記されているくらいなら、出版社に対し、増刷の折りに訂正した方がいいですよぐらいのご注進で済むかも知れません。しかし、停留睾丸を精巣下降がみられないと訳した個所には、首をかしげることになりますし、クロロフルオロカーボン=CFCをフロンとせずそのままCFCと訳出したのもうなずけません。
 第2章で、野生生物のガンに触れた節で、「PAHとは、石油製品に含まれる化学物質で、炭素を含んだ物質(ガソリンから野外パーティの焼き肉にいたるいろいろな物質)が不完全燃焼を起こした場合に発生する。」としていますが、原文に忠実に訳せば「PAHは、石油製品中に見出されたり、ガソリンから野外用グリルに置かれたハンバーガーにいたるいろいろな炭素を含む物質が不完全燃焼をおこした場合に発生する化学物質である。」となります。石油製品・・と炭素を含む物質は並列にすべきことは、いうまでもありませんが、アメリカ食文化の代表であるハンバーガーが焼き肉に化けてしまう翻訳の奇妙さには唖然とします。
 また「DDTのような合成塩素を含有する化学物質」とあるので、合成塩素ってなんだろうと思うと原文は「DDTのような塩素を含有する合成化学物質」となっていました。
<えっPCBが水蒸気や硫化水素にかわる??>
 PCBが地球の隅々まで、汚染していった様子を記述した第6章では、「PCB、DDT・・・ダイオキシンら10種の有機塩素化合物が、食物連鎖を介して脂肪粒子に入り込んだり、気体に姿をかえ」とあるところは、何故か、ダイオキシンだけが主語となり、「ダイオキシンは、食物連鎖を介して脂肪粒子に入り込んだり、水蒸気に姿を変え、」と誤訳されています。
 さらに「PCB分子は、硫化水素ガスとなり、そのため湖面はブクブク泡立った。」と化学的にありえない記述は「硫化水素ガスが水中で泡立つ中、PCB分子は自由を得て、飛びでていった。」とでもすべきでしょう。
 第7章にあるアメリカのタイムズ・ビーチのダイオキシン汚染の節では、「これに続く、洪水により汚染が家庭や店舗に広がったと」あるべきところ、「ダイオキシン汚染は、家庭や企業に拡大していったのである」とし、洪水のことが抜け落ちています。そのすぐ後で、原文には「10年ほど前に、廃油運搬業のこの会社は、室内馬事競技場の床に廃油を撒いた時に同じような事件を引き起こしていた。」とあるのに、「問題の業者は、10年ほど前にも、おなじような汚染事故を起こしていた。その際、舞台となったのは室内競馬場だった」としか訳されていません。
 第10章の乳ガンとエストロゲンの関連を記述した節では「エストロゲン反応性腫瘍にはエストロゲン・レセプターがうようよしているため、エストロゲンに暴露するとたちまち増殖しはじめるのである。」とありますが、原文は「エストロゲン反応性腫瘍は、エストロゲン・レセプターの中にたくさんあり、エストロゲンに暴露すると増殖する。」となっています。
 また、「ブラッドローは、エストラジオールの異名をもつエストロゲンのプロセス方法には、化学的にみて二通りのやり方があることを突き止めた。」という意味不詳の意訳個所は「ブラッドローは、人体が、化学的に異なる2つの方法で、エストラジオールとして知られるエストロゲンの一種を代謝処理していくことを発見した。」と原文通りに訳した方が、はっきりしてきます。
 PCBが甲状腺ホルモン系を撹乱し、脳や神経系の発達に影響を与えることことを記述している節では、「PCBやダイオキシンは、種々かつ複雑で、未だ不完全にしか理解されていないやり方で、甲状腺系に影響を及ぼす。」とあるべきところを「甲状腺に及ぼされるPCBおよびダイオキシンの影響は、複雑多岐にわたる実に込み入ったものである。したがって、その全容はいまだ説き明かされていない。」としています。「実に込み入った」は不要ですし、「したがって」と接続するのは曲解です。
 上に例示したように、翻訳文を読んでいて、おかしいなと思い、原文をあたってみるとやっぱり誤訳であったいう個所が相当数みつかりました。もっと、ほかにも誤訳がある可能性が大で、原文と逐一対訳して、訳文をただしていく必要性を感じています。どなたか、作業を手伝っていただけませんかね。ともかく、これが、文学書ならいざしらず、一般向けとはいえ、厳密さを要する科学書であることを考えれば、翻訳者は勝手な想像を交えず、原文にできるだけ、忠実に訳すべきであったし、意味のわからない点があったら、原著者に問い合わすこともできたはずだったと思います。少なくとも、編集者は、環境問題の専門家らに訳稿をチェックしてもらうべきであったでしょう。今後、翔泳社には、早急に誤りをただす手段を講じてもらいたいものです。このままでは、化学物質による環境汚染問題に関して、世界的にも重要な提起をしたこの書の日本語翻訳書が、後々まで悪訳の名をとどめることは間違いないと思われます。
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作成:1998-04-01