家の北側の小さな公園の入り口に自転車が何日も放置されていた。
自転車には防犯登録とマンション駐輪許可のステッカーがはってあり、名前もあった。キーが壊れていたが、外観はまだ新しく、私がふだん乗っている自転車よりきれいなくらいであった。
通りかかった警官に自転車の事を話すと、盗難自転車のようなので調べますとのことだった。
すぐに電話で返事がきた。
「自転車の持ち主が分かりましたが、盗難届は出ておりません。持ち主は自転車をマンションの前にほうりっぱなしにしていたら、いつの間にかなくなっていて、もう不要なので処分してほしいとの事です。区の環境課へ電話すると不法投棄物として引き取ってくれます」
推測すると、自転車をだれかが無断で乗り、公園で乗り捨てたもののようである。
持ち主が盗品届を出さないと、泥棒は泥棒でなくなり、この自転車は不法投棄の粗大ゴミになる。
盗品だと警察の管轄だが、盗品ではないので警察は関係なく、区の環境課の仕事になるという事のようであった。
区の環境課に電話すると、次のような返事だった。
「粗大ゴミを引き取るには料金がかかります。持ち主に料金を払ってもらわないと引き取れません。警察の方へ連絡してみます」
その後は何の連絡もなく、自転車は相変わらずそのままである。
まだ十分使える自転車が引き取り手がなく、雨にぬれていた。
私が中学生ころ、「自転車泥棒」というイタリア映画を学校から観に行った事がある。
映画の内容はほとんど忘れたが、生活の支えとなる自転車が盗まれ、その自転車を必死に捜し歩く父と子の姿は今も印象に残っている。
この映画は戦後の混乱期のころの物語で、日本でも当時は自転車が大切な交通手段であった。
大卒の初任給では買えないほど価格も高かった。
だれもが自転車を掃除し、油を挿して大事に使ったものである。
ちかごろは自転車を大事に手入れして使う人は少なくなった。
自転車が使い捨てのように扱われ、盗まれても届けもしない。
自転車に口が利けたなら〈昔は良かった〉と嘆く事であろう。
【写真は「自転車泥棒(1948年イタリア映画)」のポスター】