空襲敢闘記   


父はいくつかの随筆を残しています。その中に「空襲敢闘記」があります。1945年5月24日の深夜にかけて父の住んでいた目黒区大岡山付近が空襲にあい辺り一面が焼け野原となりました。その中で父をはじめ親戚や近所の人たちが必死に自分の生活を守っているようすが書かれています。国と国との間の戦争に翻弄される民衆、その中で必死に自分たちを守る人々、いまから半世紀強前にあった事実を風化させないためにもみなさんに読んでいただきたいと思い、ここに掲載します。



空襲敢闘記(抄・編)

昭和二十年五月二十四日午前零時半頃であったか、確かな記憶はないが突如警戒警報を知らせるサイレンが鳴り響いた。早速ラヂオのスイッチを入れると敵数機が帝都に近接しつつある旨放送している。考えて見れば前回以来一ヶ月余、昼間一度立川へ多数機で来襲したのみにて静寂に戻っていた帝都であった。其間約一ヶ月、吾家に於いても大きく時を稼いでいた。その前夜、疎開先の祖母様から御手紙があり次の便で送らねばならぬ品物を話し合ったりしながら、今月から御米差し引きとなった丸パンを食べた。しかも丸パン一日分二個を一度にうまいうまいと頬張り、残っている御飯でお茶づけを食べ、寝しなには更にその日小生が会社で配給された海宝麺を「ひじきと変わらぬ」等云いながらお皿一杯試食して、それこそ超満腹感を吃しながら九時前後床に就いたのであった。

サイレンで起こされた時も又、敵大軍来襲の報道を聞いた時も、実に吾ながら平常と変わらず、寧ろより以上に落付いていることができたのは実は前夜の栄養食が腹に一杯ありそこから力がもりもりと泉の如く涌き出ていたからであった。当時、ラヂオは不絶情報を伝えていたが記憶にない。只刻々と迫る敵夜間大空襲の前ぶれを放送していた様だ。始めて隣組防火郡副部長の腕章をつけた。何だか急に力がついて来た様な気がした。みどりもすばやく自身の用意を整え持出す荷物を玄関に揃えていた。みどりと二人で順序よく完成したばかりの中壕にハシゴをつたって先ずトランク立てに信玄袋、それに其前日持ち帰った海宝麺の一包、座布団、蒲団包等を押し込めて蓋をした。門の傍の壕にも木箱等入れて先ずはこれで一安心と云う処だ。

照空燈に照らされて敵機が一機、又一機、三四千の高度であちらこちらを飛び廻る。見る見るうちに南方の空がまず赤くなる。次いで北方の相当はなれた処にバラバラと焼夷弾が落ちて行くのが花火のように見える。と突然頭上を通った一機から落としたのであろう身をつんざく様な落下音と共に成功館付近より火の手が上がった。愈々身近に落ち出したかと思うと思わず身のしまる感がする。空からは焼夷弾の油片が赤く燃えながらあちらこちらに落ちる。前の畑にも一つ。早速とび口でたたき消す。桜の木にもひっかかって燃えている。皆盛んにガヤガヤ叫び声を立てて消火に懸命だ。これなら延焼の心配なしと思ってすぐ家の前に戻り上空を警戒する。盛んに火のついた油片が落ちて危険極まりない。特に家の垣根によくひっかかる。小さい油片なのでたたけばすぐ消える。があちらこちらなので漸く忙しさを増して来た。

折から家の真西より飛来してきた敵一機、頭上より約五十度位手前にてバラバラバラバラと火の粉が落下した。「これはいかん」と思うとたんにザーザーと云う物すごい落下音、思わず門前の街燈に身をよせた瞬間、バリバリ、ヅドン、バリバリ、ヅドンと云う屋根を貫く音。火の手は我家よりわずか南へ三軒目の家の前当りから上がった。皆、消火始めたのでこの分なら延焼は大丈夫と又しても危中に一安心を見つけた。がしかしそれから一、二分も経ったであろうか、又も同じ西方上空に一機来襲、同一個所で焼夷弾を落下した。今度は駄目かと思う一瞬、火の手は谷を横切って落下。一本の帯となって火を吹き上げた。始め風向は北風で成功館の方より火の粉の飛来するのが心配だったが後には西風に変わり谷向うから吹きつける。隣の家の前の谷の溝より南は火の海だ。隣が焼ければ家が危ない。撮るものも取り敢えず駆けつけて水をかける。隣には若い女の人がおり小生二人にて水をかける。たちどころに用水漕の水が無くなる。家のも無くなる。然し一軒先の家の火はいよいよ燃え盛る。風呂場の水に気がつき一生懸命に隣のはめ板に水をかける。体は水でぬれてぐしゃぐしゃ靴も目茶苦茶、ブカブカしてすぐぬげる。風呂場の水もたちまち使いつくした頃、火は残念ながら浅野さんの二階に移り始めた。二階には水がとどかない。その上その水さえ遂に補給がつかぬ。「もう之までだ」、自分の家を守ろうと思って家に引き返した。

家の台所近くに来るや否や又々新しい焼夷弾が次、次へと落ちている。此時、一発は異様な音を立てて遂に吾家の台所天井を貫いたらしい。外より見ると台所中、硝子越しに真赤になっている。「畜生!遂に落ちたか」、今迄、今の今迄は大丈夫と思っていたが。すでに体は隣家の消火で既に疲れ切っている。台所の木戸口に走り寄ったら運悪く中から閉って開かない。力にまかせて木戸をたたき破り中に入る。既に台所中、一面、火の海だ。中に入ったが水が無い。水道は勿論出ない。大声で叫んだが誰も居ない。どうにも手のつけ様がない。困った揚句、家の中に駆けて行った時、ふと足許の掛蒲団に気が付いた。「これだ、これだ」とすぐ大きな掛蒲団を一枚ひきずる様にかついで来て台所の戸棚の前の火点にかぶせて足でふみつけた。蒲団の四方から火がふき出る。丁度此時、伊藤さんが小生の声にかけつけ、一、二杯水を呉れた。蒲団の上からかけたが大した効果もない。そこへ近所の人が水をもって駆けつけてくれた。すぐかける。然し次の水までの間が長くて火は仲々劣えぬ。このとき天佑か神助か蒲団で火力を押さえているそのすぐ下に土釜が二つあり、しかもその土釜に夫々水が一杯入っているではないか。「これだ、これだ」、すぐお釜二杯の水で蒲団をぬらし次の水を待つと不思議と急に火力は劣え始めた。「しめた、しめた」、もう大丈夫だ。そう思っている中に叔父様、ご近所の人たちから夫々数杯の水補給あり遂に消し止めた。

「消したぞ」、大声で叫んで台所から出るや否や、今度は隣家の二階が炎々と燃えている。今度は「家に水をかけろ」と叫びながら一心不乱に水をかける。裏口より叔父様、みどり、叔母様、珠子、皆代り替りに庭より水を持って来て小生に呉れる。羽目板にどんどん注ぐが、すぐ湯気になって消えてしまう。吾家もついに燃えるかと思い荷物を運びだすことを考えたが、すでに壕にいろいろな物をみどりが入れてあったので安心。焼けても大丈夫と思いつつも、此の後、いよいよ最後に持出すべきものを頭の中で数え上げた。御位牌、ラヂオ、自転車・・・。しかし、家は燃えぬという信念の下に消火しているのだ、これらのものは最後まで持出さぬと決心、消火に専心する。もしここで持出せば皆の気持ちが乱れる事を恐れたからだ。こうしてどんどんどんどん水をかける。家の井戸、隣の井戸と両方から補給して呉れる。

周りでは「あと五分だ、頑張れ頑張れ」と連呼している。小生もそれに呼応して水をかける。既に炎はこちらになめかかって来る。顔が暑い。焼けつく様だ。思わずバケツの水を頭からかぶる。数分経つと又耐えられなくなる。又水をかぶる。全部で明け方まで何杯かぶった事だろう。バケツリレーの水もなかなか間に合わぬ。そこで杓子でドブ水をかける。全く夢中で水をかけていたら遂に最悪の場面に直面した。即ち炎上している隣の二階が家の上に押しかぶさって倒れかかって来たのである。愈々絶体絶命、思わず持っていた柄杓で支えた処が先の金の桶が取れてしまった。思わず素手にて支えはねかえした。そばで叔父様が「手では危ない、何かないか」とおっしゃって居られたがそんな暇はない。今考えてやけどをしなかったのが不思議な位だ。疲れた体に一心に南無妙法蓮華経のお題目を称えながら、神仏の加護を祈りつつ消火に縦横無尽、頑張ったのである。倒れ掛かったやけた柱も漸く火が衰え始めた。やや暫く、もう延焼の危険は去ったと思われたが未だ余燼が上がり炎は燃えている。今、心をゆるめ風向が変われば大変と疲れた体を自らはげましながら何回となくバケツの水を注ぎ込む。何時の間にか空はうす明るくなりかけて来た。時計を見たら四時過。一同、思わず顔を合わせお互いの敢闘を祝しながら先ず無事を喜び合った。小生もうれしかった。ご近所の人たちも来られ「四囲は全部焼けたが一軒丈残った、満願だ」と云って叫んでいる。皆敢闘したものの喜びの雄叫びだ。

この頃からどうしたものか寒さを覚える。一通りの寒さではない。悪寒だ。ガタガタふるえる。洋服も多少ぬれてはいるもののそんなに冷えている訳ではないのだが、皆に聞いて見ると皆が皆ふるえている。余り火の側で駆けったりしていた反動であろう。焼け跡の火に遠くからあたりながら暖をとる。いつの間にか近所の火もすっかり下火になっている。見ると一面の焼け野原になっているので驚いた。まだ余煙と灰煙でよく見えぬがとにかく相当な被害らしい。一方、家の中は台所の焼夷弾消火の時、土足にて往来し、又、水をかけたので泥と水でぐちゃぐちゃ、畳の上にあがる訳にも行かぬ。然し焼け残ったのだ、この位はしかたないとあきらめる。腹が減ったので平常用意していた炒り米を食べる。みどりは御飯を炊く。焼け出された人の手前もあり余り仰々しくできぬのでこっそりとおにぎりを作る。小生もみどりと腹一杯、食べる。相当食い込んだ事と思いつつも、今、この時元気を出さねばと思い遠慮無く頂戴した。お酒でもあれば大いに祝杯を上げる所だがそれどころではない。次の空襲にそなえて対策をねりつつ喜び合うのであった。


Top Page