茶の文化史テスト解答

1) 「茶は南方の嘉木なり」の書き出しで始まる世界最初の茶書は(「茶経」)で、作者は(陸羽)である
2) それが書かれたのは中国の()の時代
3)

この本の中には、茶の起源、製茶道具、茶葉の作り方、茶器、茶の飲み方、茶の産地等がかかれている。

飲み方のところで、のどの渇きには()憂忿を除くには()、睡気を覚ますには()とかかれている

4) 今日世界で飲まれている茶は大きく3つに分けると、紅茶、烏龍茶、緑茶。 発酵させないのが(緑茶)、全発酵させたのが(紅茶)、その中間で半発酵したものが烏龍茶である
5) 奈良時代、東大寺の僧侶を中心に、朝廷貴族の間でも すでに茶が飲まれていたと考えられるが、風雅な喫茶趣味が誕生したのは平安時代の初め。遣唐使の(空海)や(最澄)などが、中国の喫茶文化を日本にもたらした。当時は平安京の新しい国造りを目指していたので、唐の風雅な茶が積極的に取り入れられたのだ
6) 徐々に僧侶の間にも喫茶の普及を見ることとなる。しかし、空海、嵯峨天皇の死以後は茶への関心は()にとって代わり、鎌倉時代のはじめにはすっかりすたれてしまう。
7)

この喫茶沈滞のなかに出てきたのが京都(建仁寺)寺の始祖、栄西禅師。

栄西は()から帰国、茶の種(苗)を持ち帰った。この頃、源実朝が2日酔いに苦しむことが多く、栄西は[茶は養生の仙薬」といってすすめたところ効果あったそうだ。

栄西はその著書(「喫茶養生記」)のなかで、茶の薬用効果に注目している。

それまでの団茶(塊の茶を粉にして煮出す)に代わる新しい喫茶法、いわゆる抹茶の法を中国から持ち帰りその紹介に努めた。

8) 明恵上人は栄西との交流で、茶に関心を持ち、茶を栽培する。これが(栂尾とがのお)茶の誕生。以後、長く日本一の茶産地として名をはせることになる
9) 明恵上人は仏道修行上の3つの大毒として、@雑念A坐相不正B睡魔をあげ、茶は(睡魔)を払うのに効果ありとし、茶をひろめる。民衆にも施茶をする。
10)

仏教では施茶を広める一方、宋から帰国した曹洞宗の開祖(道元)は禅僧に厳しい修行生活心得を徹底し、日常の飲茶喫飯等の作法ができる。仏前への献茶供茶・人へのもてなし等の(茶礼)もつくられた。

禅に茶が組み入れられ、まさに”()禅()味”となる。

11)

鎌倉時代後期には、明恵の茶園で取れた栂尾茶を「本茶」、それ以外の茶を「非茶」とし、それを当てる遊び(闘茶)が流行し始める。賭けに当たると贅沢な賞品が出るという遊び。

この頃は、花合わせ、歌合せ、貝合わせとうの遊興が流行っていたのでその延長にこの遊びができたのである。

12)

またこの頃は(佐々木道誉ささきどうよ)を代表に《婆娑羅の茶》という遊興的な茶が流行し、いままでの風雅な喫茶の世界から大きく道が外れてしまう。

13)

南北朝時代になると、茶が権力者の資力の誇示の場となっていく。(足利義政)は銀閣寺東求堂内に4畳半の書院座敷を設け、これが後の茶室の原型となる。

《婆娑羅の茶》とは異なる《王朝的な茶》で唐物主体の豪華な茶道具で、権力者の冨と力を誇示。

書院造りの部屋で行われるのでこの茶を(書院茶の湯)と呼ばれる。

権力者のもとで、茶は上のものと下のもを結ぶ媒体となり一層広まっていく。

14)

一方、堺では冨を築いた町衆を中心に新しい茶の世界が誕生した。《婆娑羅の茶》《書院茶の湯》と異なる(わび・さび・草庵)の茶だ。

一休宗純のもとで禅を学んだ(村田珠光)がその祖とされる。この茶の湯は武野紹鴎にひきつがれ千利休によって大成される。

ここに、貴族でもなく武士でもない(町人)の手によって、堺の町を中心に(市中の山居)と呼ばれる空間での新しい喫茶の世界が誕生する。

15)

堺商人を通じて中国より茶道具が堺に集まってきた。

織田信長)は、名物狩りを行い、権力者としての力を世に示す。戦の戦功品として茶道具が与えられることもあった。

茶の湯本来の精神性よりステータスシンボルとしての価値の高さに注目して、信長、秀吉ら権力者達が茶に非常な関心を示し、茶人を出仕させる。

利休も(織田信長)、(豊臣秀吉)に仕える。

16)

名物収集、堺商人の経済力への依存の秀吉に対して、茶本来の精神性を説く利休との間で乖離が生じた。(1591・天正19)年、利休切腹をさせられる。

17)

利休死後、町人でなく(武人)茶匠が登場してくる。茶の湯は将軍家、諸般武士の必須教養・社交儀礼項目となり、片桐石州、(小堀遠州)らが、家康の茶道師範となる。 いわゆる(武家茶)の隆盛である。

これは利休の(わび・さび・草庵)の茶とは違い、再び、器物、財力の誇示に走っていく。

18)

その頃中国では抹茶が影を潜め、煎茶がその位置を代わろうとしていた。わが国では黄檗宗開祖の(隠元)が煎茶を広める。

売茶翁ばいさおう)は風変わりな服装で茶を売り歩き、煎茶をふるまって人目を引いた。彼の周りにいろいろな文人が集まってきた。

この風流な煎茶は詩・書・画の理想境地を求め詩人、書家、画家などの間で広まり、深化していった。

19) 幕末維新の動乱の時代をへて、(西欧化)の波にのまれ 茶道は抹茶流・煎茶流も困難な時代となる。裏千家の困難の時期については宮尾登美子の著書(「松風の家」)を読むと良く理解できる。
20)

貧乏となった武家からの茶道具の名品が、新興財閥の間で買い占められていく。三井財閥の(益田鈍翁)、三菱財閥の(岩崎弥之助)、鉄道王の(根津青山)、電力王の(松永安左ヱ門)などである。

女子)教育に茶道を取り入れたことで、茶道を学ぶ人口が増え、茶道は安泰することができ、現在に至っている。

参考文献:   NHK人間講座「茶の文化史」2002・10月ー11月:講師 小川後楽

この問題の解答はごく一般的なものであくまでも目安としてください。状況によってはこれだけではない場合もあります。

 

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