思いつくまま2003.812

2003.12.23 歳月不待人

歳月は人を待たず・・・年末が近づくと誰しもが実感することです。この1年を振りかえると、世の中は不景気に加えて戦争、テロといった物騒な言葉がニュースに出るようになり、ほのぼのとした明るいニュースはなかなか聞かれなかったようです。

しかし、不景気でも良いことはあります、例えば、デパートなどのお店は、お客に対する態度がとても丁寧になり、サービスも良くなりました。病院でも、患者様と呼ばれるくらいで 患者中心の医療に変わってきているようですし、メーカーも不良品を出せばすぐ取り替えたりして顧客中心に変わってきました。また、仕事を大切にする人も増えていると思います。そして、私のような主婦は、無駄なものは買わないで、物を大事に使えるまで使うという考えが定着してきています。もっともこれでは経済社会は活性化しないかもしれませんが、人に対して丁寧に、物は大事に使うということは 不景気がもたらした良いことではないでしょうか。

今年は、我が家でもいろいろありました。家族に病人がでたり、私のお茶の先生が階段を踏み外されて大腿骨骨折され手術を受けられました。80歳を越えていらっしゃるのでとても心配しましたが、「お茶をまたやりたい」という強い意思で見事回復されました。正座はまだお出来になれませんが、着物を着て腰掛けてちゃんとお稽古を再開されています。いろいろありましたが、皆それぞれ回復して新年を迎えられることは本当に有り難いことです。

2003.12.01家元のお好み

今年初めに、お家元が 坐忘斎千宗室に変わりました。鵬雲斎お家元は隠居され、鵬雲斎千玄室となられました。

裏千家では代々家元は「宗室」と名乗ります。しかし歴代のうちには「宗室」を名乗っていない方もいます。5代目の不休斎常叟と6代目の六閑斎泰叟です。この方々は60歳に満たない間に叟号を許されたので、「宗室」を使わなくて良くなったのです。

このように、お家元になる方は、「生まれたときの名前」「若宗匠」「宗室」「玄室」と変わり、まるで出世魚のようです。

 新しい家元になると、その家元のお好みの茶道具等がでます。茶道資料館で秋に 坐忘斎自作好み物展があったようですが、私は残念ながら行かれませんでした。

 お抹茶や、練り香も 坐忘斎お好みのものが新しく出ました。まず練り香ですが、鳩居堂から「坐雲」、松栄堂から「松涛」。

お抹茶はお詰がいろいろあるので見やすいように表にしてみました。

濃茶

薄茶

祇園辻利

壷中の昔

長久の白

一保堂

雲門の昔

関(かん)の白

上林春松

玄中の昔

千古の白

福寿園

萬丈の昔

山月の白

栄松の昔

青仁の白

丸久小山園

松花の昔

清浄の白

山政小山園

まだ出ていない

まだ出ていない

練り香は、いろいろ混ぜて作るので、調合によって香りも違ってくるでしょうが、抹茶はどうでしょう。

違いの分かる舌を持たない私にはちょっと分かりかねますが、それぞれのお抹茶を頂いてみたいと思います。

2003.11.24 茶は茶色?

現在 私たちが日常飲む煎茶や、抹茶は緑色をしています。しかし通常私たちが使っている「茶色」は緑色ではありません。江戸時代、庶民は今のような煎茶は飲めませんでした。茶の葉は貴重で 上流階級の人が飲み、その残りの茶の茎を焙じて飲んでいました。これは煮出したり、焙じなければ美味しくなかったそうです。いわゆる「ほうじ茶」です。そこで、このお茶の色を「茶色」と言ったのです。ですから今は煎茶を「緑茶」とわざわざ表示してあります。

横道にそれますが、「四十八茶に百ねずみ」といって、茶色にも多くの種類があり、茶色と鼠色は わが国の侘びさび文化を代表する色彩です。

ところで、お濃茶の名は「何々の昔」、お薄茶の名は「何々の白」と付いている事が多いようです。なぜ「昔」と「白」がついたのでしょうか。

先日、遠州流の方の講演を聞きましたら 次のような説明をされてそのわけを初めて知りました。抹茶は、葉を蒸して乾燥させて細かくして作られていましたが、古田織部は緑が好きだったので、葉のあおさを茶に求め 茶葉を茹でて乾燥して細かくして作ってみたのところ、確かに色はきれいになりましたが、茶の香りがなくなってしまったというのです。それを、小堀遠州が昔の製法に戻したので「何々の昔」と言い、また蒸す製法では茶の色がやや白味がかるので「何々の白」というようになったそうです。濃茶用に「昔」をつけて、薄茶用に「白」をつけるということは、ちょっとよく分かりませんが、製法から「昔」「白」がついたということは分かりました。

2003.11.5 開炉

「柚子の色づくを見て囲炉裡に」と利休がいった開炉。「冬は暖かく」の心でお釜も大振りに、炭の寸法も大きくなります。

開炉は、茶人にとっての新年、心新たになる時期です。

そこで今日の稽古は、私は色無地の着物です。残念なことに、生徒の皆さんがそれぞれのご都合で、同時には いらっしゃれないので、お茶事は出来ません。せめて、手作りの「ぜんざい」に、真昆布のやわらか煮を小皿に添えて、むいた柿も一緒にお出ししました。

 半年振りの、炉のお点前も皆さん難無くなさりました。炉になると、斜めに向いて点前をするため、湯気の立つお釜をはさんで お客様との対話も和やかにできる気がします。

ちょうど、白玉椿もつぼみが良い具合に膨らんでくれ、ハナスオウの色づいた葉と共に使うことができました。

 

2003.10.26 伝法院

伝法院浅草の伝法院でのお茶会に行きました。ここは上野の宮様(公遵法親王)が浅草御殿とされ3年間宿坊された建物で、今は浅草寺のお坊さんの住居となっています。庭は小堀遠州が作ったもので広い池、築山があって大きな建物の広縁からの眺めはまるで京都のお寺にいるようです。

大きな木が周りを囲んでいるので まわりのビルもまったく見えず、本当にここが東京?と思うほど緑豊かで広い静かな空間です。

友人のお濃茶席にまず入りました。書院造りの立派な広間で、欄間の複雑な彫りは非常に素晴らしいもので、襖絵も見事です。場所柄、床は伝法院本来の幅広の仏画が掛かり脇床に筆柿香合が飾られていました。お点前は友人が教えている会社茶道の若い男性です。地元浅草の「にし村」のお菓子に、美味しいお濃茶を頂きました。

立礼席は、またこの友人が教えている学校茶道の方が初々しいお点前をされました。お菓子は生徒さんがきれいな千代紙を折って作った小箱の中に、かわいい栗と紅葉の干菓子が入っています。色柄それぞれ違う小箱を選ぶ楽しさと、蓋を開けたときの喜び・・・とても楽しい趣向と感心しました。

素晴らしいお茶会に満足して門を出ると、人人人の浅草の喧騒、非日常から日常に戻った瞬間でした。

2003.10.19. お茶会のシーズン

10月からはお茶会のシーズンで、あちこちからお誘いをいただきます。

今日は、六本木「茶寮あら井」での友人のお茶会に行ってきました。界隈は六本木ヒルスができて、とても人が多くでていました。「10時からの席に」と予約制なので、待合も皆ゆったりとしています。薄茶が2席です。

 本席のお軸は、なんと玄々斎の消息文、お花はホトトギス3種が生けられています。香合は小ぶりの、桐菊蒔絵なのですが、これは江戸時代にイギリスに輸出されたものが、オークションでまた日本人の手に戻ったものが巡りめぐって友人のところに来たと言う物だそうで、ロマンを感じるものでした。中置のしつらえで、棗は黒の真塗り、茶杓の銘が「知足」で、私の好きな言葉でした。

 もう一つのお席では、とても珍しいお道具を見せて頂きました。中国の籃胎漆器の大きな柄付き丸重箱を、千歳盆のようにして使っていました。三段重ねの上二つを菓子器とし、下のお重に蓋をして千歳盆風にしています。

中の薄器は萩焼きの細い筒に溜め塗りの蓋を造って載せたものです。まさに見立てといえます。

 ゆっくりと、お薄2服いただき、上等な秋の献立の点心(吸い物、向う付けがついている)をいただき、それでいて正午ちょっと過ぎにはもう帰路につけるという時間的にも無駄のない、大満足のお茶会でした。

2003.9.02 許状引渡し式許状

裏千家茶道は、許状制度で、修練の成果として許状を頂くのではなく、許状を頂いてから初めてそのお点前を修練してよいことになっています。そこが他のお稽古事と違っていると思います。

許状を申請することは、教えている側にとっては大変うれしいことです。特に、「行之行台子」を申請するときは、「あぁ ようやくこの方もここまで続けてくださったのだわ」と感慨深いものがあります。

最近「行之行台子」を頂いた方がいます。ここまで進むと「淡交会」に入会でき、研究会にも行かれるので是非ここまできて欲しいのです。

許状をお渡しするときは、やはり大きな節目ですから そのお点前を披露し、厳かにいたします。

2003.8.10 お稽古事

 今までいろいろな稽古事をしてきました。

小さい時のピアノに始まって、英会話、料理、パン作り、編物、書道、そして茶道。

ピアノは練習をすればいろいろな曲を演奏できるようになり、進歩が客観的にわかります。英会話はそれなりに続ければ上達し、実際に役に立ちます。料理や、パン作りは家族に喜ばれます。編物は 作品として残り、実用的でこれも家族に喜ばれます。書道も作品が残り、進歩が目に見え 上達すればとても嬉しく、お礼状など主人に代わって自信を持って書けるようになります。

 では茶道の稽古はどうでしょう? いろいろなお点前を覚え、お薄やお濃茶を美味しく点てられるようになります。立居振舞も美しくなるでしょう。季節に敏感になり、美しいものを見る目が養われることもあるでしょうし、言葉が丁寧になるかもしれません。これらのことは、すぐ役に立つとか、作品が出来て客観的に上手下手が分かるという種類のものではありません。 稽古日に人の前で、またはお茶会でお客様の前で 緊張して集中して点前をするパフォーマンスだが、それは点前をする傍から消えてしまい 形としては何も残らない、なんとも心もとない稽古事と言えます。

茶道とは、「一期一会」の実利性の少ないパフォーマンスなのです。

 

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