思いつくまま2007.7‐12

new2007.12.25  今年をふりかえって 

 今年もあとわずかを残すのみとなりました。ふりかえって見ると まず健康に稽古に励むことができたのが一番の感謝です。健康は私ばかりでなく主人もです。家でしている稽古なので家族の健康も大切です。

また、5月には思いがけず茶会をすることができました。茶会をするにはいろいろと条件が整わないとできません。幸い社中の人数がそれを満たしていて、皆さんとても一生懸命に協力してくださいました。85歳の私の先生も来て下さり嬉しいことでした。ネットで知り合った方も来てくださって、初めての対面を果たしました。

11月には茶事も出来ました。一年に一回はしたいと思っているのですが、これも普段の稽古に追われるとなかなか出来ません。

上級の台子点前の稽古も何回か出来ました。ただし、土曜日クラスは混んでいるため、また月2回しか稽古日がないこともあって、「行」まで許状がある方もいらっしゃるのに台子点前までは出来ず申し訳ないことでした。

社中の皆様が稽古を重ねていくうちに、とても茶道らしい所作になっていくのを見ることは先生冥利に付きます。若い方で着付けをご自分でなさって稽古に着物で来てくださることも多く、教室がとても華やかな中にも緊張感がでていい雰囲気になります。

「継続は力」、あまり気負わずに茶道を皆様とともに長く続けられたらと思います。茶道は厳格に徹底的に、正式にすればきりがありません。ぬるい茶道かもしれませんが、茶道の精神は忘れずに身の丈にあった私なりの茶道をこれからも続けていこうと思います。 

2007.12.15  濃茶・薄茶の飲み方 

 薄茶はお茶碗が自分の前に来てから「お相伴します」とか「お先に」と挨拶して、お点前さんに「頂戴いたします」と言ってから頂きます。

一方濃茶は、正客がお茶碗を引いてきて次客との間において、お茶を頂く方全員で総礼をします。正客がお濃茶を頂いている間に次客は三客に「お先に」とつぎ礼をします。つまりお茶碗が来る前に礼をしてしまいます。ここが薄茶の飲み方と違います。

これはお濃茶は何人かで頂くのでお詰まで冷めないようにまわすという配慮で、予めつぎ礼をしておくのです。

また、楽以外のお茶碗に古帛紗を添えるのも、薄い作りのお茶碗では冷め易いので古帛紗をあてがい少しでも冷めるのを遅らせる配慮なのです。

濃茶は薄茶より熱い温度のお湯で手際よく点てて、温かいうちに全員に美味しく頂いてもらいたいというのが亭主の願いです。ですからお客も頂く時はゆったりと味わいますが、飲み終えたらさっさと飲み口を拭き次の方に渡すよう心がけないといけないと思います。「ゆったり」と、「手早く」という相反する動きがここでは必要です。のんびり湿し茶巾を出してゆっくり拭かれる方がいるとお詰は冷えたお茶を飲むことになります。客同士思いやりがないと最後まで温かさを保てません。

お茶の頂き方で薄茶と濃茶に違いがある理由もちゃんとあるのですね。

お稽古をしていくうちに、後から分かるいろいろな発見があります。 

2007.11.29  裏と表 

 今年は宗旦没後350年とのことでした。

宗旦の祖父、利休の400年遠忌法要茶会が行われたのが平成2年春でした。この時、私は運良くくじに当たり京都まで行きました。着物を着て朝一番の新幹線に乗って大徳寺でのお茶会を何席か回ることができたのをはっきり覚えています。

 宗旦以降から千家が三つに分かれました。宗旦の息子が4人いて長男は茶の道をはずれ、次男が高松藩に仕官しましたが後、京都武者小路に《官休庵》を建て 武者小路千家(官休庵千家)を立ち上げました。三男は紀州藩に仕官の後、もともとは利休の茶室であった《不審庵》を宗旦から受け次いで表千家(不審庵千家)を立ち上げました。四男は宗旦が不審庵を譲った後《今日庵》という茶室を建てましたが、それを譲り受けて裏千家(今日庵千家)を立ち上げました。

不審庵三畳台目《不審庵》というのが、利休伝来の茶室、千家の一番中心の表向きの茶室です。そこでここを引き継いだ三男が表千家と言う名称になったわけです。

《今日庵》は《不審庵》の北側、つまり裏に建てられました。そこでそれを引き継いだ四男は裏千家という名称になったわけです。今日庵1畳台目

ちなみに宗旦は今日庵を譲った後にまた《又隠》という茶室を建てています。

茶道を習い初めた頃、裏と表の千家流があることは知っていましたが、どうして裏なのか表なのかが分かったのは大分経ってからのことでした。

参考: 

《不審庵》の号は「不審花開今日春」の禅語から取られたといわれます。不審は「いぶかしい」という意味でこの語は人智を超えた自然の偉大さ、不思議さに感動する心ともいえます。(表千家のページより)

《今日庵》号については、清巌宗渭和尚が腰張りに書き付けた言葉「懈怠の比丘明日を期せず」(明日を期せず今日あるのみ)から取ったという説や、上記の「不審花開今日春」からとったという説もあります。

2007.11.14  開炉茶事 

 小春日和の今日 開炉茶事をしました。昨日が亥の日で、柚子も黄色に色づきはじめています。開炉にはちょうど良い日でした。

稽古茶事とはいえ、いつもの稽古とは違ったあらたまった雰囲気でしようと、案内の手紙も筆で書いて出し、皆様から丁寧なお返事も頂きました。玄関脇には鉢カバーをつくばいに見立てて、寄り付きは居間ですが、それらしく飾り付けました。庭の柚子の実も添えて・・。

寄り付き
つくばい
松樹が絵になっています

 《松樹千年翠》の軸を掛け、見立ての茶壷も飾りました。台子総荘りで厳かさを演出。

 炉の下火を用意するタイミングに気を使います。早すぎると折角炉中に撒いた湿し灰が乾き、釜のぬれ肌具合も台無しですし、火も赤々とはせず、灰が周りについてしまいます。今日はお客さまに案内した時間の10分前に火をつけましたが、下火が熾るのに案外時間がかかり焦りました。しかし、お客さまが身支度をされたり、香煎をいただいたり、つくばいを使っていらっしゃる間に用意ができうまくいきました。

 初炭の後は懐石です。今回は松花堂弁当風にしましたが、汁を温めたり、ご飯を盛り付けたりで、丁寧に素早くという相反するはたらきです。お客さま4人くらいが素早くできる限度ですね。

「亥の子餅」をお出しして、中立をしていただいき、いよいよ茶事のメーンのお濃茶です。軸を巻き上げ、花を掛けます。

初炭
松花堂風懐石
白玉つぼみがまだかたい

 織部の茶碗を使いました。台子ですから柄杓を杓立てに戻したり、入れたりと結構左右に動きがあり、着物の裾が気になります。 火は赤々と、湯はちょうど良い具合に沸いていて美味しい濃茶をお出しすることができました。

続きお薄からはお点前をお客さまに替わってしていただきました。全員お薄を頂き、拝見に出したお道具を取りにでるところでまた私に替わり、最後の締めをしました。

バトンタッチ
お薄
次客が先にいただきます
お茶碗拝見

こうして茶事も無事終了。お正客さまも心得のしっかりした方、お詰の方も若い方をいろいろとお教えしながらして下さいましたのでなんとか緊張した雰囲気で理想どおりに行われました。まさに一座建立で終えることができたと、私は満足感一杯でした。

時間も懐石が略式でしたので3時間で終えました。しかし、初めから最後まで一人で茶事の亭主をするのは体力的に大変と思います。今回はお薄から交代していただきましたので助かりましたが、立つ時スッと立てない自分が悲しいです。腹筋等をきたえねば・・。

皆様が帰られた後、ひとりお薄を自服して余韻を楽しみました。

うまくいった時は不思議に疲れないのです。いろいろと後片付けも気持ちよくヒョイヒョイとできてしまいます。そして早速ホームページまでしてしまうのですから《気分》って大切なのですね。

2007.11.10  能と茶道 

木賊棗
隅田川
金春金襴

 茶道具には能の演目からの意匠がよく使われます。例えばお茶碗や棗で、「木賊」「鉢の木」「菊慈童」など。また花入の「高砂」、香合の「隅田川」、釜の「桜川」、裂地の「金春金襴」・・等々。

 意匠以外でも銘にも使われます。宗旦は能が大好きであったそうで、茶杓の銘にも「松風」(今日庵蔵)「二人静」(徳川美術館蔵)「弱法師よろほうし」(根津美術館蔵)と能にまつわる銘をつけています。有名な長次郎の「俊寛」という銘も能からきています。

 これらの道具と出会う時、その話の内容を知っているのといないのとでは、楽しみの幅が違ってきます。能の話は歴史を舞台としたものも多く、古典文学についても知識が求められることを考えると、茶道は本当に勉強することが無尽蔵。

 能鑑賞は今までに何回行ったか思い出しても、私は5本の指で数えられるほどです。能というと動きが緩やかで、内容も高尚でむずかしく、とても敷居が高いものと感じるのです。内容を鑑賞するよりか、ただ衣装が素晴らしいこと、鼓や笛、謡の心地よさ、幽玄な雰囲気だけ鑑賞してきた嫌いがあります。実際に鑑賞に行かなくても、せめて演目の話の内容は多少なりとも知っておかねばとこのごろ痛感します。

 能は茶道以外でも歌舞伎、浮世絵、日本舞踊、日本画等の題材にも幅広く影響を与え、日本文化の源流ともいえるものと思います。

 また、世阿弥の残した言葉も、茶道を学んでいく間によく聞かれます。

初心忘るべからず
能ばかりでなくいろいろな分野で共通して言えることです。この「初心」という言葉の意味は世阿弥によると、初めの志ではなく、初心者であったときの自分の純真な気持ちを言うそうです。
序破急
能では舞楽のリズム、演目番組の構成のついての教えとのことです。茶道では点前をする時、ずっと同じリズムではなく緩急をつけてという風に教わります。
不失花
「うせざるはな」と読みます。花の輝きは時とともに消え行きますが、稽古によって磨かれた魅力は失せることがない。生涯そういう花を持ち続けよと教える言葉

「不失花」 さて茶道は深く勉強をすればきりがありません。若い時はお点前をする事だけが茶道とばかりに勉強していましたが、年齢とともにいろいろと知っていると茶道の楽しさが増すことが分かってきて、課題がいっぱい出てきて 溺れそうです。茶道が総合芸術といわれる所以を実感しています。

 向学心はあるのですが、最近は折角勉強してもなかなか頭に定着しにくくなっています。悲しーい!

 

2007.10.14 茶道具 

茶道を習っているうちは特にお道具はなくてもすみますが、教室を持つとなるといろいろと必要となってきます。

風炉・釜はじめ、水指・茶碗・棗・茶入・茶杓等。そのうちに棚・軸・花入れ・炭道具・水屋の備品等細かいものがたくさん、また季節にあった物などを考えると果てしないです。

初めの頃は種類を集めることを中心に、稽古道具的なものばかりでしたが、この年になってようやく「お道具」といえるものに目がいくようになりました。友人のお茶会等へ行くにつれ目が肥えて、数よりも質となってきたのです。といっても、上を見れば気が遠くなるので、勿論自分の身の丈にあったほどほどのものです。それでも自分で吟味したものには大変愛着があり、扱う時もそれなりの心構えとなります。茶碗など茶杓でコンと茶を払う時など「心して打つ」を心から実感しますし、洗うときも十分に気をつけます。物を大切に扱うことが頭(理屈)でなく体で体得できる気がします。

還暦記念に奮発した皆具、九州の窯元まで行って求めた水指、茶会のために頑張った茶碗、何気なく行ったお道具やさんでとても気に入ってしまった茶碗・・・くらいなものですが、私なりの思い出、由来がつまったものです。これらの道具を時々箱から出して、しみじみと手にとって眺めるのは私の密かな楽しみです。

「稽古の時からよい道具を使って」と、よく業躰先生が研究会でおっしゃいますが、確かに”大切な素晴らしいお道具”と思うだけでも、緊張して丁寧なお点前になると思います。また使ってこそのお道具とは思いますが、実際には特別な時以外にはなかなか使えません。

祖母や義理の母から何気なく譲り受けた道具も、この年になってつくづく有難いなと感謝の気持ちが増してきています。

2007.09.28 茶禅一味 

茶道と禅は深いつながりがあります。茶道の始祖村田珠光は一休に参禅、利休は古渓宗陳に参禅、現在も代々の宗匠は大徳寺で参禅し得度されて、斎号を頂くと聞いています。

もともと茶の木は臨済宗の祖、栄西が日本にもたらしたということからして禅宗と結びついています。僧が修行する時に眠気を払う時に飲まれていたと何かの本で読みました。

単に[喫茶すること]に、禅の精神が入れられて[茶道]になり、《茶禅一味》という言葉がそれを象徴しています。

茶道のどういうところに禅の精神や、形が入っているのか、ふと私なりに考えてみました。

まず茶室に入る前に世塵を払い自身の心を清める意味で手水をつかいます。そして、床のお軸を礼をして拝見。お軸は墨跡第一で、禅宗の高僧の方(または家元)の書かれた禅語の場合が多いのでその文言に対してまた書かれた方に対して礼をするのです。

床には花があります。床に花を飾るのは仏様に一対の花入れと燭台、中央に香炉を供える五具足から由来しています。(これは禅宗とは限らない・・)

懐石の作法も禅宗の食礼からきたものです。また鳴り物でいろいろと知らせるというのも禅宗らしいことです。例えば、にじり口の戸をパタンと閉めて亭主側に知らせる、点前中の柄杓をコンと引く音、茶筅通しの音、客の吸い切り音で美味しかったことを伝えること、中立後の銅鑼の音・・・・等々言葉でいわず、音で知らせること。また茶事で亭主と正客が初めと最後に無言で礼を交わすことも禅宗の精神なのではと思います。

そもそも禅宗(臨済宗)とはどういう宗教でしょうか。イメージとしてはお経を唱えるとか、仏像を拝む、護摩をたくといった他の仏教と違って、日々のお勤めとひたすら坐禅をして自分と向き合い、雑念を払って心をみがくもの・・・「坐禅三昧」なのではと考えます。

茶道は、ひたすら点前を稽古することで、雑念を払い精神を集中して、自分を見つめ心をみがいていく、即ち「点前三昧」することで《茶禅一味》を実感できるのでは思います。

2007.09.19 染付・呉須・祥瑞  -青と白のやきものー 

 青と白の焼物では染付・呉須・祥瑞があります。祥瑞は模様に特徴があるのでわかりやすいのですが、染付と呉須の区別はなかなか難しいです。

畠山美術館でこれらの展覧会をやっていたので行って来ました。

染付龍涛文天球瓶初めに明時代の大きな染付の大皿、水注、天球瓶が特別展示されていました。唐草文や龍の模様が白地に青でたっぷりとはっきりと描かれています。花は西アジア風で薔薇のようでもあります。いわゆる青華文です。これらのものはトルコに行った時にトプカプ宮殿でたくさん見たものと似ていました。

説明によると染付は東アジア、イスラム、オランダのデルフトなど世界に大きな影響を与えたものとのこと。日本の茶人にも大いに好まれて、多く注文されたようです。染料の顔料コバルトブルーは大変貴重なもので、官窯のもの(上記の特別展示品)は青がふんだんに使われしっかりとした模様となっています。

日本からの注文のものは民窯のためコバルトの量の少なめで釉もうすく、模様もシンプルで使っているうちに角がはげてしまうものもありました。しかし茶人には「虫食い」といってかえって喜ばれました。

呉須十二角共蓋水指次は呉須。茶碗、水指、香合などが展示されています。いかにも茶趣のあるもので、灰色がかった白地に薄くにじんだように青で山水、人物、舟等がシンプルに描かれています。説明によると日本からの注文で福建省の民窯で大量に焼かれたもので、コバルトの発色はややにごっているが落ち着いた趣と素朴な風合いで茶人に好まれたとあります。赤を基調にした赤絵呉須もあります。

ベースの白の色が染付は白で、呉須はやや灰色がかった白。青の発色が、染付ははっきりとしているが、呉須はくすんでいる。 大雑把に言うと、こういうことで区別がつくようです。

祥瑞は明末期に日本の茶人の注文で景徳鎮で焼かれたもの。染付の部類で、白地が少なく青で模様がびっしりと描かれています。その模様も「捻り文」「さや型」「七宝文」「青海波文」「籠目」「窓絵」等や、幾何学模様で、日本のみに伝承したものだそうです。 底に「五良大甫呉祥瑞造」と書いてあるので祥瑞というそうです。

染付の香合には摘みのあるものはなく(例:荘子香合」「叭々鳥香合」)祥瑞のものから摘みがあるもの(例:立瓜香合」)が出来たそうです。

今回の展覧会で何となく、染付・呉須・祥瑞の違いを勉強できました。

2007.08.22 濃茶の回し飲み 

 茶道の点前は数々ありますが、ほとんどが濃茶点前です。四ケ伝以上はすべて濃茶。小習でも≪薄茶でも出来るけれど原則は濃茶≫というお点前ばかりです。

 茶道は良いのだけれど、お濃茶の回し飲みがどうも・・・という方が多くいらっしゃいます。大寄せのお茶会で濃茶席を敬遠される方もいらっしゃいます。私もお稽古を始めたばかりの頃は、一つのお茶碗の抹茶を他人と回し飲みすることにビックリしましたし、ちょっと抵抗がありました。家族間でもそういう経験はありませんでしたから。

そうは思っていても茶道の稽古をしていくと回し飲みに慣れるしかありませんでした。

後に、13代円能斎が、近代感覚に即した各服点(かくふくだて)を考案されたことを知りました。正客一人分のお濃茶をお点前で出し、次客以下は水屋でそれぞれのお茶碗でお濃茶を出すというものです。しかし残念ながら各服点は定着しませんでした。

一つの器で皆が飲むという事はお酒の時の習慣から来ているのです。返杯を受けるとか、固めの杯等、お互いが他人でなく同士・仲間であるという連帯感をそれで表したものと思われます。戦国時代は茶室でいろいろな密談が交わされたよう聞きますが、同じお茶碗で一服の濃茶を飲むことで結束・信頼を確認し合ったのでしょう。

現代ではそういう必要はありませんが、相変わらず回し飲みは続いています。茶道ではお道具にこだわり、亭主が≪このお茶碗で≫という心入れのものを使います。濃茶も練り加減で味も大分違います。心入れの茶碗で、同じ味わいのお濃茶をと思うと、やはり回し飲みになってしまいます。

 お濃茶を頂く時は、息が入らないよう一口一口茶碗を口から離して清らかに飲みたいものです。紙小茶巾で飲み口を清める動作も、サッときれいに爽やかにして次の方に手渡ししたいです。

2007.08.08 師とのご縁 

 前にも書きましたが、今までに 結婚、転居、師の死等の都合で私は師を何人か変えざるをえませんでした。

 私が50代にはいった時、先の先生が亡くなられ、その後しばらくは 師につかない時期がありました。その時は研究会を唯一の勉強の場としていましたが、研究会ではあくまでも舞台の上のお点前を見て、業躰先生の解説を聞くのに留まり、自分で点前をして、見ていただく事はない状態でした。その時は既に少しですが生徒さんにお教えしていましたので、友人のお茶会等に行くとだんだん自分の技量、知識の欠如を自覚するようになり、自信がなくなってきました。

新たに師を探すということも難しい年齢、友人のお稽古場に行って勉強しようかとも思いましたが、友人と師弟関係になるのはやや抵抗があり、さりとて積極的に探そうともせずに過ごしていました。

 ある春先の研究会の日、私は一人で参加しました。偶然隣に坐られた方(着物姿で70代くらいの方)もお一人。普段は見知らぬ方にはあまり自分からは声を掛けないのですが、その時は何か舞台上のお点前の疑問を思わずその方に話しかけてしまいました。その方は明確なお答えをされ、そこから少しずつお話が弾みました。

師の死以降、先生につくことなく生徒さんにお教えしていること、何となく自信がなくなってきたこと等をお話しすると「家にはあなたくらいの方が沢山いらしているので良かったらどうぞ」とおっしゃいました。そして住所(わたしと同じ区)を書いてくださいました。初対面の方に私がこうべらべらとしゃべってしまったのというのも今から考えると不思議ですが、何か温かみのある方だったのです。

 帰ってからさっそく、いろいろお教えいただいたお礼の手紙を書きますと、すぐお返事が来て≪50代は勉強のしどきの時期、今度八炉の稽古をするのでよろしかったらいらっしゃいませんか≫とのこと。私は八炉の稽古をしたことがなかったので思い切って伺うことにしました。

こうして今の師のところに通うようになったのです。隣り合わせに坐ったという偶然の出会い、そして何気なくお話掛けをしたこと・・・今から考えると、見えない運命の糸のような『ご縁』があったのだと思います。

先生のところは月一回の稽古ですが、皆ベテランぞろいなので、大変緊張感をもって私は稽古しています。

今、師は85歳・・これからも長く、きびしくいろいろとお教えいただきたいと願っています。

2007.07.20 茶人の品格 

 藤原正彦氏の「国家の品格」、坂東真理子氏の「女性の品格」がベストセラーになり、最近《品格》という言葉がやたら目につくよう感じます。

坂東真理子氏によると、品格とは正義感、責任感、倫理観、勇気、誠実と、節制心、判断力を持って、優しさ思いやりの美徳があることと定義しています。

企業の社長さん達、学校の偉い人たち、マスコミの偉い人たち等が不祥事、事故、捏造、不正等で頭を下げている映像は見慣れてきています。品格が個人ばかりか社会にも欠如しかかってきた現象ともいえます。

経済成長ばかりを目指して、金銭力、所有欲、独占欲、名誉欲、権力欲を満たすためには手段を選ばず、倫理観がふっとんでしまった結果、個人も社会も品格をなくしてしまったようです。

《それを言ったらおしまいよ》の寅さんの言葉ではありませんが、「それをしたらお終いよ」「それをしたら恥かしい」という歯止め、ブレーキを掛けてくれるのが品格と思います。

こういう品格が備わるための土壌はやはり小さいときの家庭教育が大切ですが、大人になってもまだ間に合います。マナーを守る、きちんとした言葉を話す、聞き上手になる、自分がしてほしくないことは他人もにしない、感謝の心を持つ、良い人間関係を作る、礼儀正しく生きる、等、ちょっと気をつけて努力すれば品格ある生き方ができるのです。

茶道をしているからといって、皆が皆 品格ある人間になるとは限りません。確かに茶道などの伝統芸能では型から学んでそれを身につけていくうちに心が備わるといわれます。しかしそれも心がけ次第 努力次第です。稽古さえしていれば自分は品格ある人間だと勘違いは禁物です。茶道は品格ある人間になるヒントはたくさんありますが、やはり日々注意してそのヒントを生かしていくよう努力が必要です。

new2007.07.08 利休は意地悪? 

 筒井紘一氏の《利休百話》を読みました。前にも読んだのですが、こういう本は何回も読み返さないと味わうことができません。
今回読んで、利休に対してまた改めて感じたことがあります。それはとても自信家で人の好き嫌いがはっきりとされた方だったのではということです。その点 信奉者もいる代わりに反感を持つ人も多かったと思うのです。

 逸話@ 墨蹟を入手したいと願い出た人に「いや、あなたにはその必要はないでしょう」と。その人が再度願い出ると「あなたの家は立派すぎて、墨蹟は面白くないでしょう」と言われます。その人の家が火事で屋敷も粗末になるや利休は「今あなたが墨蹟をお持ちになるには真にピッタリです」という話。

 逸話A ある田舎人が一両の金子(きんす)をよこして「何でも良いので私に合う侘び道具を買ってください」と願い出たところ、利休はそれ全部で白布を買って送ったのです。「侘びと言うものは何はなくとも茶巾さえ常にきれいにしておればよい」と手紙を添えて。

 逸話B ある人が、さる茶会に招かれていましたが、時間までに時間があったので利休の家に立ち寄りました。利休は喜んで呼び入れ、たいそうなもてなしを始めました。その人は、時間が気になっていましたが帰るわけも行かずようやく辞して茶会に着いた時にはもうその茶会は終わっていたと言うのです。実は利休は最初からその人が茶会の前に立ち寄ったことを知っていて「茶会の呼ばれていて余った時間があるからと言って他所に行くのはもってのほか」とわざと引きとめたというのです。

 それぞれの逸話には利休の教えが見え隠れしているとはいえ、ちょっと“意地悪利休“の感(?)もぬぐえません。直球でなく、くせ球で相手に返し、それで自分の考え、教えを伝えていった方のように感じました。
もちろん百話ですから、他にためになる良い話も沢山ありますし、今使っている茶道具のいわれ、なぜこのような形になったかという話など参考になる話があります。

 利休の時代の茶は厳しいもので、根本的な人間としての生き方、道徳、世の中を生きていくうえの規律、その人なりの分際をわきまえること・・等を教えるために役立っていたものだと思います。翻って、現在の茶道を考えると「もてなす心」「思いやり」「気配り」「和」等を基本理念としており、さすが平和の時代だと感じます。


現在、子供の躾、大人のマナーの悪さ、言葉の乱れ、情緒のなさ・・等の問題が出てきていますが、茶道もここで利休の時代の理念に回帰して、人間として生きるうえでの厳しさ正しさを教えられる文化になればとも思います。

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