new2015.12.28 今年を振り返って
「去年今年 貫く棒のごときもの」虚子
人間が便宜上作った暦だと、「いよいよ今年もあと数日」という事ですが、自然界の鳥や動物、植物は今まで通りの朝日が昇って夕日が沈む日々です。終わりも初めもありません。
しかし我々は一年を終えレセットして、新たな気持・希望を持って次の一年を迎えるのです。この一年の《十大ニュース》とか《今年の漢字》等この年を総括して新年を迎えます。
そこで私もこの一年の茶道教室について振り返ってみました。
今年はこの茶道教室で初めて「茶名」を拝受された方がいらしたこと、また「行の真台子」まで許状をいただけた方がいらしたことは私にとってとても嬉しいことでした。
また、社中で私の古希を祝って銀座で食事会を催してくださったこともサプライズで嬉しいことでした。
稽古のほうは生徒さんが結構いらっしゃるので花月をいろいろ稽古ができ、また且座や三友の式などもできました。
上のお点前ができる方が増えたので「行の行台子」や「行の真台子」などの特別稽古が幾度かできました。8月は今年初めて稽古を休みにしてしまいましたがこれはちょっと反省です。暑いときはそれなりの稽古もできたのにと思いました。しかしその間生徒さんは美術館に行ったり、茶に関する本を読んだり自主的に勉強をされたようです。
11月・12月は主人が思いがけなく体調を崩し、稽古ができなくて残念でした。自宅で茶道教室ができるのも自分と家族が元気であってのことという事を思い知らされました。
主人の体調が去年だったらと思うと冷や汗です。去年《古希茶会》ができたこと本当にラッキーで良かったと有り難い気持ちです。
人生は不透明、何が起きるかわからないので、やりたいことは出来るうちにやる、その日その日を大切に精一杯生きていくしかありませんね。
2015.12.14 公案
公案というと禅僧の世界だけのことと思っていました。公案は禅宗において修行僧が悟りを開くための課題として与えられる問題のことですから。例えば《隻手の声》といった公案です。
先日何気なくTV(多分Eテレ「こころの時代」だったような?)を見ていましたら曹洞宗のえらい僧侶の方がお話しされていました。
そこで印象に残ったことは、私たちが何か問題にぶつかったときはそれがその人に与えられた《公案》と受け止めればよい…の様なことをおっしゃっていました。
これを聞いて《公案》というのは何も禅僧だけのものではなく、我々も日々公案を与えられていて、それなりに考えているのだと思いました。
悩み・困難の事が起きた時《これは私に与えられた公案なのだ》と、じっくり考え自分なりの答えを出すということでしょう。
公案には正解はなく、その人が熟考した挙句に出した考えが正解ということです。
禅の世界では、苦しみは存在しない。その人が苦しみと受け止めるか否か・・すべて心の在り様というのです。例えばコップの中に半分の水が入っているとして、ある人は《もう半分しかない》と考え、またある人は《まだ半分残っている》と受け止めるといったようなものです。
つまるところ、難問が降りかかった時は 人のせいにしたり、天を恨むことなく、どう立ち向かったらよいか自分で考えて自分で答えを出す・・・自分の心の在り様を自分で探るということなのでしょう。言うのは易く実行は難しいですが。
このところ、茶の稽古から遠ざかっていたので、なにか哲学的なことばかりが・・・。
2015.12.02 ペットロスならぬ お茶ロス
わが茶道教室の土曜クラスは月2回の稽古です。そこでたまたまその両日ともが都合が悪いと、1か月休んでしまうことになります。
生徒さんのある方から《先月も一回しかお稽古できず、 今月も一回だと思いましたら、むしょうに お稽古がしたくなりました。 ちょっとしたペットロスならぬ『お茶ロス』みたいな淋しい感じです。》というメールをいただいたことがあります。
《お茶ロス》・・・・初めて耳にしましたが、言い得て妙です。そこまで茶道を楽しく思ってくださるとはと、私はメールを見て嬉しく感じました。
今、私がその状態になっています。
10月末に、主人が体調を壊して手術を受けることになったのです。高齢でもあり、大変心配でしたが、幸い無事手術は成功しました。しかし消化器系統なので、後が大変です。
そこでわが茶道教室も2ケ月休ませてもらい、主人の世話、特に食事管理に傾注しています。よく噛んで少量ずつ何回にも分けて食事をします。主人は食べることに追われているようで、食べるのに疲れると言います。思うように食べてもらえない日が多いです。
まるで、子供たちが赤ちゃんだった頃の離乳食作りと、せっかく作ったのに食べてもらえなかった時のようです。
そのようなわけで、茶道を休んで2か月…来年の干支の茶碗や懐紙も揃えたのにと…そろそろ《お茶ロス》の気持ちになってきました。
茶道の稽古ができるということは、家族や自分が健康で、幸せの時ということをつくづく思うこの頃です。
2015.11.03 主人公
茶掛けに《主人公》というのがあります。
普通に主人公といえばドラマ・演劇でいう物語の中心人物を指します。
しかし、これは禅の公案の中の言葉で、本来の自己・真実の自己いう意味です。
唐時代の瑞厳師彦和尚(ずいがんしげんおしょう)が日々自らを戒めた言葉。
和尚は自分自身に「主人公よ」と呼びかけて、「おいしっかり目覚めているか」、「はい目覚めております」と自問自答したそうです。
人はだれもが自分自身にとっての主人公です。
けれど時に迷い、自分を見失う。だからこそ常に自分自身に呼びかけ、それに答えて本来の自分、自分自身のあるべき姿をしかと見つめることが大事というわけです。
困ったことが起きた時、不安な気持ちになった時、怒りたくなった時、いらいらした時、いやな考えが湧き出てきた時・・・・こういう時 鏡で自分の顔を見るとどうでしょう。きっと気持が顕著に表れていることでしょう。鏡を見なくても想像がつきます。
その時こそ「おい主人公よ」と呼びかけ、「顔が変になっているぞ」「はい、変です。よからぬことを考えていました。」と自問自答して、自分の心を本来の自己の姿に戻し、自分自身のあるべき冷静な行動を確立することができればよいと思います。
2015.10.3 香付花月
生徒さんの習熟度が上がってきたので、この頃はいろいろな花月を楽しむことができるようになりました。
今週は《香付花月》の稽古を初めてしました。
これはお香を3種類用意して、【月】に当たった方がその中から一つ香を選んで焚きます。その香を皆が聞いた後、香銘を知ります。その後平花月のように薄茶を3服点て、そして最後に香銘に因んだ歌〔和歌でも俳句でもよい〕を披露するという、なんとも雅びなものです。
即興で和歌を詠むのは大変なので、前の週から香銘は皆様に伝えて、歌を考えてきてもらうようにしました。最初は皆さん「えっ和歌ですか」とか「五七五でもよいですか」とかおっしゃりながらも、ちょっと楽しそうな雰囲気。香銘は《輝月》として、中秋の名月の時期でもあったので月に因んだ歌をということにしました。
奉書に銘々筆で歌を書く時も、一応筆ペンも用意したのですが、皆様は本格的に墨と筆で書かれました。
歌もそれぞれ気持を素直に詠まれたものや、お人柄の分かる良い和歌ばかりでした。
茶道・香・和歌がコラボレートしたもので皆様大いに楽しまれたようでした。時間が余ったので、投げ込み花月も楽しみました。
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2015.09.01 秋の七草
今年は秋の到来が早く、このところ雨も多く22℃位の肌寒い日が続いています。快適といえばよいのですが、何か異常な感じです。
秋の七草の中の《桔梗》が環境省の絶滅危惧種Uに、《藤袴》が準絶滅危惧種に入っていること、ラジオで知りました。
河原撫子も危ないそうです。今は園芸種がありますが、いわゆる日本在来種がレッドデーターリストに入っているのです。
これらの草花は人里近くの草むらに生えるものですが、その草むらが減っているのです。河川工事・田畑の整備・宅地造成、除草剤使用などが原因だそうです。
和歌にも多く詠まれていて、万葉のころから近世にかけてはごく一般的な草花であった七草、将来は秋の五草になってしまいそう…。
そもそも秋の七草がそうなったのは古く山上憶良の和歌からで、”秋の野に咲きたる花を指折りふれば 七種の花、萩の花、尾花、葛花、撫子の花、女郎花また藤袴、朝顔の花”昔は朝顔だったそうですが桔梗と似ています。
昭和の初期にある新聞社が有名作家にひとつづつ選んでもらった新秋の七草というのがあるそうです。それはコスモス・オシロイバナ・ヒガンバナ・シュウカイドウ・ハゲイトウ・キク・アカマンマ。
これらは今身近な草花で、現実的です。
2015.08.23 研究会メモなどの整理
淡交会研究会に出席するようになって四半世紀。
業躰先生から直接お話が伺える唯一の機会です。年4,5回しかないせっかくの勉強の会。「不立文字」で会場ではあまりメモを取ってはいけないといわれますが、私はちょっとしたことでも聞き逃すまいとメモを取ります。聞いてその場ではわかっていても忘れるからです。
そのメモを家に帰ってから取捨選択してノートに書きなおします。そのノートも10冊を超えました。時々見直し、やっぱりメモしておいてよかったと思うことが多いです。
研究会での業躰先生の講義は教授法のヒントとしても、生徒さんをお教えする私には大いに役に立ちます。
この夏休みに今までのノートを読み返し、整理しました。点前、所作、道具についていろいろ再認識することが多かったです。会場が虎ノ門ホール時代、鈴木宗保氏・阿部宗正氏・横山宗樹氏・倉斗宗覚氏・永井宗圭氏などそうそうたる業躰先生方からの講義も今は懐かしいです。
また、雑誌《淡交》も気に入った箇所を思い切ってカッターで切り取ってファイルし、本は捨てました。おかげで本棚もすっきりしました。
また、茶道具の整理・着物の整理もして、炭もたっぷり切って9月からの稽古に備えることができました。
たまにはこういうまとまった休日は必要です。
2015.08.10 鈴木大拙著「禅と日本文化」を読んで
8月は稽古を夏休みにしました。この猛暑に 無理しないで休みにしたほうがよいと判断しました。
生徒さん方には宿題ではないですが、この休み中に茶道に関する本を一冊でもよいから読んだり、また美術館で茶道具の一つでもよいから見てきてねと言いました。
私はずっと積読であった鈴木大拙著・北川桃雄訳「禅と日本文化」の本をゆっくり日にちをかけて赤い鉛筆で線を引きながら何とか読み終えました。
この本はもともと英語で書かれていて、外国の方に仏教を講義するために書かれたものです。「茶の本」を英語で書いた岡倉天心といい素晴らしい英語力を持った方があの時代にいらっしゃたことには驚きます。
まず第1章は禅の予備知識、あとは禅と美術・禅と武士・禅と剣道・禅と儒教・禅と茶道・禅と俳句の章立てになっています。
禅の予備知識では、禅は8世紀中国で発達した仏教。禅の一風変わった鍛錬法は 真理がどんなものであろうと身を以って体験すること。それゆえ禅のモットーは《言葉に頼るな!》不立文字。体験して直覚的知識を呼び覚まさんとするものが禅である。
私は茶道をしているので禅と茶道の章についてじっくり読みました。
茶は禅僧によってもたらされ、薬効があり、種々の病に効くと考えられた。茶は心神を爽快にさせるが陶酔はさせない。
栄西→大応国師←一休→珠光→紹鴎と続き、利休が最後の仕上げをし、今の茶の湯(tea-cult)となった。
茶の「和敬清寂」の精神は禅の精神と密接な関連があり、これは禅寺の生活そのものである。
聖徳太子が604年《和を以て貴しとなす 忤(さか)らふことなきを宗とす》と云ったよう、日本人は全体として温和な性質の国民である。しかし社会的政治的な難題に接するにつれこの日本的性格からそれやすくなる。それを守ってくれるのが禅の”我をなくす心の柔”。
茶室の雰囲気は和を周囲につくりだすこと、光は柔らかく瞑想的な気分に誘い込む。心の誠実さは茶における敬。清潔・整頓は茶の清。藁屋の名馬の喩えごときの貧乏の美的趣味・不完全なる美が茶の寂。
茶は自然と一つになりたいという心の奥底にある憧憬の美的表現である。茶は単に遊芸にあらず、美と道徳や精神性とが溶け合っている。事実昔の茶人は真面目に禅を修めていた。
以上簡単な概略を書きました。
現在、茶道の稽古は点前をする、茶会をする、茶事をする事だけで道を修めると考えがちである。一般の我々は参禅などの機会を持ちませんが、「茶禅一味」といって禅の精神・気持ちが入って初めて遊芸でない事になります。
茶の《和敬清寂》という言葉は知っていても、それを実践しつつ稽古をしていかなければならないと思います。《和敬清寂》という言葉の奥深い意味を再認識しました。
2015.07.16 伝統文化考
わが社中が出演したご縁で、ずっと見ていたTV放送大学《英語で描く日本》が今日lesson
15で終了しました。
ブロウカリング先生が日本の伝統文化(日舞・剣道・合気道・義太夫・そば打ち・折紙・生花・茶道・書道・座禅・和太鼓・仕舞・着付け・紙漉き・囲碁)をすべて実際に体験して感想を述べるという番組でした。これほど多くを体験できた外国人はいないだろう、とてもラッキーだったと先生は言われます。毎回本当に一生懸命挑戦されていました。そしてポイントを付いた質問をされていました。日本人である私も目から鱗のようなことも学べました。
最終回の今日は 今まで体験したものから、日本の伝統文化に共通する特徴や、ブロウカリング先生の感じた《日本の心》を総括されました。
日本の伝統文化の特徴を次のような項目で説明されました。
1)礼に始まり礼に終わる
稽古の初めと終りをきっちりさせ、日常から非日常へ切り替える。扇子を前に置き敬意を表して相手に礼をする。稽古場・道場も聖なる場所として入る時・出る時一礼する。
2)練習の大切さ
”習うよりも慣れろ”「とにかく身に付くまでやりなさい。理屈は後から分かるから」と、ひたすら稽古を繰り返し練習させる。米国ではまず目標を定めて練習させる。
3)集中、無心でする
「何も考えないで無心でなさい」理想的な心のあり方・気持ちのあり方も修行の一部とと考える。
4)型の中での自由
きっちり型を守ることを重視。しかしある程度まで行くと自由度が許されるものもある
5)日常生活への応用
稽古をすることで「如何に生きるか How to live」を学ぶ。
ブロウカリング先生は数々の伝統文化を体験され、その深さに驚き、畏敬の念を抱かれた一方、決まった型をきちんと守らせることは堅苦しくもあり古くさくもあるが、そこに価値を見出しているのが伝統文化。そのあたりが現代では日本人に遠ざけられているのではないか? しかし基本は基本としながらもそれでも楽しんだりする方法もあったりで進化はしている。
伝統文化は日本を日本たらしめていると思う。日本はハイテクでモダンな国であるが、こういう伝統文化の強みを知ることが大切で、それを学んで外へ発信するコミュニケーション力を養ってもらえたらよいと思うと結ばれました。相手を知ることより、自分を知ることが大事とも言われました。
追伸::この番組は今月7月22日から29日まで1日2 lessons ずつ夏季集中授業で放映されます。地上デジタル12ch またはBS231-232 時間は 16:45から18:00
2015.07.04 許状伝達式
「真の行台子」の許状を頂いた方の伝達式をしました。
やはりここまでこられた方にはきちんと許状をお渡ししたいと、稽古日とは別に、茶名をお持ちの方の同席をお願いして行いました。
私が実際に点前をするのが良いのですが、同席した方の練習にもなるのでその方にしていただきました。そのあと許状伝達式をして、早速このお点前を初稽古していただきました。
今までのお点前とは違った所作・扱いが出てきますが、やはり四ケ伝・行の行台子・円草と稽古を重ねてこられた方なので、まずまずの初稽古でした。
その後は、おしのぎで祝いの膳を囲みました。
紋付姿で式を仰々しくすることは大切です。きちんとした伝達式を経験することで、あらためてまた精進していこうとする気持ちが出てくると思います。
わが社中から、先日は茶名を、今回は真の行台子を頂いた方が出たことはとても嬉しいことです。約四半世紀まえに茶道教室を始めた当初には ここまで修行を進まれる方が出ることは夢にも思いませんでした。ですからとても感慨深いのです。
”稽古とは一より習い十を知り、十よりかえるもとのその一”
十まで進まれた方も《これでもうよい》というのでは進歩は止ります。また初心にかえって「もと」にもどる…しかしその「もと」は初めの「もと」より次元は高いはずです。