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私はこれまで社内向けにe-hanashiと題してエッセイの
ようなものを書いてきました。たまたま、仕事に関係のない内容のものを外部の方に読んでもらったところ、差支え
ないものについては続けて読みたいというありがたいご希望をいただきました。これから時々、私の駄文をHP上に掲載させていただきます。お読みいただければ幸いです。

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e-hanashi pv20050115 渋沢栄一とパブリック
e-hanashi pv20041229 2004年、世の中にも私にも色々ありました
e-hanashi pv20041218

イタリア!

e-hanashi pv20041114 シンガポールで考えたこと
e-hanashi pv20041030
幽翁、伊庭貞剛

e-hanashi pv20041003

江戸時代はすごかった
e-hanashi pv20040828 夏の終わり - 雑感
e-hanashi pv20040816 瀕死のヒナとの出会い
e-hanashi pv20040803 おカネと幸福について
e-hanashi pv20040710 自分の年金は自分でつくる!
e-hanashi pv20040705 ホーミイ
e-hanashi pv20040625 投資教育の前に「お金の大切さ教育」を
e-hanashi pv20040529 懐かしのニューヨーク旅行
e-hanashi pv20040511 「若者よ、カネを貯めろ!」−年金問題のおさらい
e-hanashi pv20040425
人口問題を考える

e-hanashi pv20040415

四国八十八札所お遍路の旅
e-hanashi pv20040413 人生いろいろ

e-hanashi pv20040330

土地神話の呪縛
e-hanashi pv20040309 命の重さ
e-hanashi pv20040222 ホンネとタテマエ
e-hanashi pv20040211 ナンバー・ワンとオンリー・ワン
e-hanashi pv20040201 ふたたびリーダーシップとビジョン
e-hanashi pv20040121 瞑想
e-hanashi pv20040111 リーダーシップとビジョン
e-hanashi pv20040104 減量達成!
e-hanashi pv20031228 私さがし
e-hanashi pv20031224 開運の秘訣
e-hanashi pv20031221 インベストライフ
e-hanashi pv20031211 香港雑感
e-hanashi pv20031124 芸術の秋
e-hanashi pv20031118 メトロ沿線ウォーキングに参加
e-hanashi pv20031114 CFA授与式に出席して
e-hanashi pv20031025 情報→感情のメカニズム
e-hanashi pv20031016 フィランソロピーと投資

e-hanashi pv20030927

日本人の性格を形成するもの
e-hanashi pv20030918 ボサノヴァ
e-hanashi pv20030911    東海道完歩
e-hanashi pv20030819 ぶらりウォーキング旅
e-hanashi pv20030809 プレゼンテーションの技法
e-hanashi pv20030730    何でも3ポイント法
e-hanashi pv030721 北海道旅行から幕末・明治を考える
e-hanashi pv20030519 アップル大往生

e-hanashi pv20050115
渋沢栄一とパブリック

昨年12月の中旬にインベストライフの仲間と渋沢栄一についての座談会を行いました。座談会はインベストライフの1月号に掲載されています。座談会には栄一から数えて五代目に当たる渋沢健さんも参加していただけ、しかも、栄一が晩年、こよなく愛していた洋風茶室、晩香廬を使わせていただけました。まるで、渋沢栄一が座談会に参加してくれているような雰囲気でした。

渋沢栄一は、日本の近代資本主義の生みの親、また、産業・経済界の父とも呼べる人です。大蔵省、第一国立銀行の初代頭取などを務めた後、多数の企業、教育機関を設立し、また、幾多の慈善事業を着手しました。彼の信念は「論語とそろばん」、「経済道徳合本主義」「実業は国利民福」などの言葉に象徴されています。1840年、天保時代に生まれ、1931年、昭和6年までの91年の波乱万丈の人生はとても興味深く、また、学ぶことの多いものです。

表面的には、彼の人生は「節」が変わっているように見えます。例えば、若い頃は尊皇攘夷の志士でした。城の乗っ取り計画が挫折し、窮地に陥ったところを助けられ、徳川慶喜に仕えることになります。しかも、外国人は夷狄禽獣だと言っていた彼が、パリの万国博覧会への使節団に参加することになります。帰国後、今度は新政府の大蔵省に勤務し役人となりますが、それも退職して民間事業の拡大に注力することになります。一体、どうなっているのかとも思える人生です。現実主義者であったのかもしれません。私は多分、彼の心のなかでは、その時々、葛藤はあったと思いますが、一本、筋は通っていたのだと思います。それは「パブリック」という概念ではないかと思うのです。

面白いエピソードがあります。彼が17歳の時に藩の陣屋から彼の父親に呼び出しがあります。病気の父の代理として栄一が出向くのですが、その時、役人が「このたびお姫様がお輿入れされるので御用金の支払いを申し付ける。ありがたくお受けいたせ」と言われます。それに対して栄一は、「自分は父の代理なので即答はできない」と言いはります。役人は烈火のごとく怒ります。当時としては考えられないことだったのでしょう。それでも栄一は頑として聞かず、家に戻ります。結局は父の意向で支払うのですが、権力に対して抵抗感を持っていたことを感じさせる話です。「反権力」という視点で見ると彼の変節とも思える生き様は筋が通っていると言えそうです。本当の国の力は権力者ではなくて民が持っているのだということを彼は幼い頃から知っていたのでしょう。そしてパリで近代的な資本主義を目の当たりにして目が覚める思いをしたのでしょう。

ここで「民」というのは「パブリック」です。土井健郎先生の「甘えの構造」(弘文社)にパブリックに関する興味深い記載があります。パブリックというのは本来、個人や個々の集団を超越するものを意味しますが、この言葉が外国から到来して日本語に訳さなければならなくなったときに、それに対応する適切な言葉がなく、考えた末、「おおやけ」という語を当てはめた。それはなぜかというと「おおやけ」つまり「皇室」というものが日本の変わらぬ権威ある存在として、これまで種々の集団間の争いを止揚する機能を果たしてきていたからです。こうして「パブリック=おおやけ」となったわけです。ですから本当の意味は小さな集団に限定されないすべての人々のことを、すべての集団を超える存在である「おおやけ」という言葉に込めたのでしょう。

渋沢栄一が国の底力として感じたのも、すべての集団を超越したパブリックというものだったのだと思うのです。それが昭和の前半の軍国主義のときは「おおやけ」=「公」=「軍」となり、戦後は「おおやけ」=「公」=「官」となってしまった。つまり、パブリック=官僚になってしまったのです。官僚自身もそのように思い始めたし、同時に国民もそう思うようになった。例えば、「公的資金」といえば政府が持っている資金のように思いますが、本来は国民が払った税金です。だから、パブリックの資金なのですが、なぜか、公的資金というとそれは政府が自由にできる、国民とは別のポケットに入っている資金のような気がしてしまうのですね。

渋沢栄一は事業をたくさん起こしましたが財閥は作りませんでした。これが三井や三菱、住友などとの大きな違いです。「財なき財閥」などとも言われています。しかし、子孫には財産を残さなくても、それぞれの企業に資本として残っていて、それが活用されて世の中のためになっているのです。自分やファミリーという小さなお財布にはお金があまりないが、社会という大きなお財布に財産をたっぷり残した。このあたりにとてつもない気宇の大きさを感じます。その意味で、渋沢栄一は本当に「パブリック」のために蓄財し、「パブリック」の力を発揮できるような土台を作った人だったと言えるのではないかと思います。渋沢健さんが、「いまは投資家教育も必要だが、資本家教育も必要だ」とおっしゃっていました。その通りです。そして、同時に国民すべてが「パブリック=自分たち」であることに気がつくことが必要なのではないかと思います。

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e-hanashi pv20041229
2004年、世の中にも私にも色々ありました

今年もあと、二日。言い古された言葉だけど「早いですねぇ」と言うのが実感。一週間は結構、ゆっくり時が流れて、なかなか週末がこないのに、なぜか一年間は早い。しかし、よく考えてみれば、色々なことのあった一年でした。イラクの問題がずっと、重たくのしかかっていて、それに日本は北朝鮮との問題が加わっている。年末のスマトラ沖地震は言うまでもなく新潟の地震や浅間山の噴火。台風もたくさんあり、四季の移り変わりもずっと異常でした。やっぱり、地球が怒っているのでしょうかね。

そのなかでうれしかったのはオリンピックでの日本の活躍。特に柔道は一つひとつの試合の印象が残っています。「若い奴らもやるじゃないか」という感じ。しかし、年金問題を初めとして少子・高齢化・人口減少の影響がジワジワと現実化しつつあります。その上、日本の子供たちの学力低下が問題になっている。人口が減っているのだからせめて、ひとり一人の能力が向上してくれないと困るのに。これは子供たちの問題ではなく、制度と家庭環境という大人の問題でしょう。そう言えば、痛ましい殺人事件も多かった。特に親族間の人殺しが多かったのはなぜなのでしょう。

私、個人にとっても結構、色々なことのあった一年でした。まず、5月には家族でニューヨーク旅行へ。昔、住んでいたアパートを訪問したり、旧友たちとあったり、20年〜29年前にタイムスリップした感じの楽しい旅行でした。家族三人での旅行も随分、久しぶりでした。でも、ワールド・トレード・センターのないのがなんともさみしい。

それから11月には妻と憧れのイタリアに旅行をしました。何と言っても文化と伝統に圧倒されたというのが一番の印象です。イタリア人の経済成長は犠牲にしても文化と伝統は守ってゆくという強い意志が感じられました。これが本当の民族としての誇りなのではないかと思います。

仕事もありがたいことに順調でした。今年は契約資産10兆円を越えることができました。1兆円を越えたのが1996年です。しかも、環境は非常にきびしい時期だった。ありがたい事だと思っています。一段と優秀なスタッフも集めることができ、来年以降の第二次成長期に備えています。

私にとってはボランティア活動の雑誌、「インベストライフ」の活動も活発でした。非常に楽しくそしてアイディア一杯の仲間と、たくさんの座談会をして、とても勉強になりました。特に、伊庭貞剛や渋沢栄一についての座談会で多くのことを考えさせられました。また、たくさんの都市でセミナーの講師を共に務めました。地元の名産物を賞味できたという余得もありました。購読者数もいよいよ1000部までカウントダウン。来年以降の飛躍的増加を期待したいところです。それから編集委員の共著で「自分の年金は自分でつくる!」という本を実業之日本社から出版することもできました。

経済同友会の活動もとても勉強になりました。特に「人口減少社会を考える委員会」に参加したことで有識者の有益な話をたくさんお聞きすることができました。その他にも江戸東京博物館の竹内誠館長、尾道市立土堂小学校の蔭山英男校長の話などは興味の尽きない内容でした。

私が実践している超越瞑想のご縁で多くの方々と新たに知り合いになることができました。「怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか」の著者の黒川伊保子さん、森永製菓の創立者の孫にあたり現在、同社の相談役を務める松崎昭雄さん、「できるビジネスマンは瞑想をする」の著者の藤井義彦さん、ニューエイジ系作曲家、編曲家、ピアニストのウォン・ウィンツァンさんなど、みなさんすばらしい方々です。瞑想という共通の基盤があるからでしょうか、最初から「話がわかる」という感じです。

それから10月には日本CFA協会の会長に就任しました。CFAというのはグローバルな証券アナリスト資格です。1962年からの伝統があり、資格がきびしく、倫理を重視するなどの特徴があります。日本には700人弱の会員がいます。日本は成熟経済に入り、人口減少などの深刻な問題を抱えています。同時に巨額の資金が存在することも事実。しかし、その資金は必ずしも経済合理性に沿った使い方がされていません。その資金を有効に活用することこそ、日本の将来を明るいものにするカギだと思います。そこに証券アナリストの果たすべき社会的な役割があるのだと思います。微力ながらこのビジョンに向かって努力して行きたいと思っています。

減量に成功しました。いまも歩数計をつけてウォーキングをしています。半年かけて3月に四国八十八札所を完歩しました。と、言っても、本当にではなく、毎日、歩いた歩数を健康ウォーキングというホームページに入力するバーチャルお遍路でした。その結果、体重は63キロへ。2003年の7月には77キロあったので、それなりの達成感でした。いまはちょっとリバウンドして64〜66キロの間で安定しています。

それからDVDの内蔵されたノートパソコンを買ったので、出張などのときに映画をDVDで見ることができるようになりました。家のDVDで映画をとっておき、それを持って飛行機や新幹線のなかで見るのです。これは結構楽しい。おかげでたくさん映画を見ることができました。かつて見たものも含め「ショーシャンクの空に」、「まあだだよ」、「グリーンマイル」、「JFK」、「ダンス・ウイズ・ウルブス」など、久しぶりに映画の面白さに目覚めた一年でもありました。

一年間、e-hanashiにお付き合いいただきありがとうございました。来年は、すべてのレベルで平和と調和が実現してゆく年になることを祈っています。良いお年をお迎えください。

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e-hanashi pv20041218
イタリア!

11月22日から30日まで七泊九日で妻とイタリア旅行しました。我々にとっては初めてのイタリアです。特に妻は「イタリア・ルネッサンス」が卒論だったのである意味、「遅すぎた訪問」だったと言っても良いでしょう。しかし、「百聞は一見にしかず」とは良く行ったもの。びっくりする事ばかりの旅行でした。まだまだ、「消化中」という感じです。また、考えたこと、体験したことのほんの少ししか紹介できませんが、今回はイタリア漫遊記といきましょう。

22日に成田を発。機内で急病人がでて、フランクフルトに緊急着陸しましたが、まずはミラノへ。翌日はミラノ見物。ここでのハイライトは「ミラノの至宝」と言われるレオナルド・ダ・ヴィンチの壁画、「最後の晩餐」(1495−97年製作)でした。漆喰の上に描かれたテンペラ画なのですが、私は恥ずかしながら、これが壁画であることを知らなかったのです。サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会に付属した修道院の食堂の壁に描かれています。その広々した空間のなかでこの絵が生きています。絵の中心のキリストの後ろには窓が開いていてそれがこの部屋の窓のような印象を与えます。そこで十二人の使徒がキリストの「汝らの一人、我を売らん」と発言したのに対し、使徒たちが「うちの大将、あんなこと言ってるぜ、どういうことなんだ!」と驚きと困惑に陥っている様がドラマを見るように存在しています。そう、描かれているというより、その場面が存在している感じでした。非常に素朴な飾りッ気のない部屋だけにこの壁画が生きています。

翌日はヴェネチアへ。特定の場所というよりは町全体が芸術作品というべきでしょうか。ヴェニスの商人の登場人物たちがひょっこりでてきそうな町並み。ガイドさんは、いま見ている風景は中世の人たちが見ていた風景と同じなのですと言っていました。本当に自分たちの文化を町全体が誇りを持って守っているのが感じられ感激でした。どっかの国の古都ではでっかいタワーができてしまっているのに・・・。

翌日はフィレンツェへ。「花の都」と呼ばれているそうですが、その名の通り、ふんわかとした暖かい雰囲気の満ち溢れる町でした。あまり、とんがったビルなどもなく、茶色の屋根と白い壁のコンビネーションが落ち着きを与えてくれるようです。ここではウフィツィ美術館。メディチ家の収集した美術品が起源だそうです。ボッティチェリの「春」(1478年ごろ製作)、「ヴィーナスの誕生」(1486年ごろ製作)など直にご対面できて幸せでした。それにしてもものすごい富豪がでてくると、芸術が進化するのだなという印象を強くしました。銀行で成功し、政治の世界に進出して、トスカーナ大公国の君主にまでなったメディチ家。その財力で芸術作品が収集され、彼らの審美眼が磨かれ、そしてボッティチェリ、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロなどたくさんの優秀な芸術家のパトロンとなり、庇護を施しました。その結果、ルネッサンス文化が花開いたのです。日本の江戸時代などにもそのような面があったのかも知れませんが、現在の日本には本当の金持ちがいません。それは平等ということでもあるのですが、一面では文化、芸術の強烈なサポーターがいないということでもあります。

最後の訪問地はローマ。ここには三泊しました。ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂ではミケランジェロの「天地創造」(1508年から四年かけ製作)と「最後の審判」(1535年から6年かけ製作)の天井画を見ました。それらはすばらしかったのですが、とにかく壁も部屋もすきまなく彫像や絵画が飾られ「これでもか、これでもか」という感じで我々、淡白な人間にはちょっと濃厚すぎる感じでした。一方、ローマの紀元前後ごろの遺跡には感動しました。いままで世界の色々な町で色々な古いものを見ましたが、大体、奈良あたりが一番、古い建造物が残っている町でした。例外は万里の長城ぐらいだったでしょうか。ところがこの町では2000年も前に作られた建造物がいまでもごく自然に残っている。一部、現在でも使われているものもあるとか。コロッセオ(72年建設)の中を歩いていると、当時の人々の興奮が渦巻いて歓声がまだ聞こえてくるようでした。パンテオン(118年)、カラカラ浴場(212〜217年)など、どこへ行っても時代を超えて昔の生活が蘇ってくる感じがするのも保存が良いからでしょうか。

色々なおいしいものも食べました。特にピザは何種類かを食べるチャンスがありました。どれもおいしい。そしてピザのドゥ、チーズ、トッピング、すべてにそれぞれの店のこだわりが感じられます。結論。「ピザはイタリアのラーメンなり」です。

旅行を通して痛感したのはイタリア人が自分たちの文化に誇りをもって、それを守ろうとしていること。そして、それが何千年も続いているということです。文化や伝統を守るためなら、経済成長は犠牲になっても良いのだという考えなのでしょう。明治維新以降の日本は「西欧に追いつくこと=経済成長」という思想があまりに強くなり、そのために文化や伝統の維持が軽視されてきているのだという印象を持ちました。文化や伝統は国民が自分の国に対して持つ誇りの基盤になるものです。イタリアを駆け足旅行してみて、日本の文化、国民の自分の国への誇りなどが危機に瀕していることを改めて感じました。

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e-hanashi pv20041114
シンガポールで考えたこと

ずい分、久しぶりにシンガポールを訪問しました。多分、10年ぶりぐらいでしょうか。以前のイメージはアジアの南の方にある比較的国際的な都市といった感じだったのですが、今回は明らかに世界の中心的な都市になっているという印象を持ちました。まず、深夜、到着してホテルでほっと一息つくと外からコーランの吟唱の声が聞こえるのです。ああ、そうだった、ここはイスラムの影響も強いんだったっけと思い出した次第です。町の中にもチャイナ・タウン、リトル・インディア、アラブ・ストリートなど多彩ですし、シティ・ホールのすぐそばには1819年にこの地に上陸したサー・トーマス・スタンフォード・ラッセルの像が腕を組んで立っています。街路を歩いていると道教の寺院があったかと思うとヒンズーのお寺、イスラムのモスクがあったりと言った具合。

シンガポールにはもともとの東南アジアの人種的、文化的な基盤があったわけですが、その上に中国の影響が歴史的にあり、さらにイギリス支配によって西洋的要素が取り入れられました。また、インドとイスラム圏とは海洋交通の便もあり非常に人々の行き来や交易が盛んでした。アラビア海からベンガル湾を通って南シナ海に通じる交通インフラがずっと存在している訳です。言って見れば、西洋、中国、イスラム、インドという今日の世界の主要な文化がこの小さな都市に集約されているようです。人種、文化のルツボとは言われ尽された表現ですが改めてそれを実感しました。

グローバル化された現代においては、人々を束ねていた国という存在が薄くなってきています。一方で、人々は文化、宗教、伝統などに自分のアイデンティティーを求めるようになってきています。シンガポールは確かにこれまでだってずっとルツボであるとは言われてきました。しかし、今回、違う印象を持ったのは、それらのアイデンティティーが、グローバル化のトレンドを受けていままでよりも生き生きと自己主張を始めていたからかも知れません。その潮流の中で、この国はもともと、現代的なニーズに合った国際都市としての強みを生かし始めているのかもしれません。

グローバル化は企業や人々の活動を自由にし、そのスケールを拡大する意味ではとても良いことです。しかし、同時にこれは二つの面で世界を不安定な状況にする可能性があると思います。まず、これまで国民を束ねていた国家権力とそれに対する文化、宗教、伝統などのソフトなネットワーク型集団の間のコンフリクトです。そして、もうひとつはそのネットワーク型集団の間のコンフリクトです。考えて見ると9.11とそれに続く、アフガンへの攻撃、現在のイランの問題はこの両方が根底にあるように思います。

シンガポールはその意味で、これから非常に大きな成長の可能性を持つと同時に、大きな不安定要因を抱えているとも言えるのではないかと思います。その点を現地の人に話してみたところ、だからこそ優秀な政府が必要なのだとの返事が返ってきました。それはそうだろうと思います。しかし、その「優秀である」という言葉の意味合いは、これまでの国を管理、運営する能力ではなくて、種々の文化、宗教、伝統などのアイデンティティーを認めつつ、調和をはかってゆくという能力になるのではないでしょうか。これらのアイデンティティーはみな異なった価値観を持っているので、全体をうまくまとめてゆくのはなかなか大変な仕事になりそうです。

本当に必要なことは世界の人々の意識がグローバルな社会に十分対応できるだけ進化してゆくということなのだろうと思います。それを言い換えれば、自分が愛情や愛着を感じる範囲を、単に自分の国や自分のアイデンティティーの拠り所となるものだけにとどめず、もっと広い範囲をその対象に収めてゆくように、意識を進化させてゆくことが必要なのだということだと思います。これを突き詰めれば普遍的な人類愛ということになるのでしょうね。

蛇足ながら、今度のシンガポール旅行ではラクサを絶対に食べようと心に誓っていました。ラクサというのはココナツ・ミルクをベースにした激辛スープにエビなどが入っているビーフンの麺です。今回は仕事の合間をぬって二回食べました。ひとつはカトン地区にあるマリーン・パレード・ラクサ、もうひとつは中心街にあるコピ・ティアム(コーヒー店の現地なまりの名前)のシグネチャー料理のラクサでした。前者はいかにも大衆的な店と味、後者はこぎれいな店で、味ももう少し洗練されたビジネスマン向けのものでした。両方とも大満足!しかし、いつも思うのはこのようなスープに入った麺が東アジア全域に広がっているのに、その他の地域ではほとんどないということです。それを思うといつも日本もアジアの一部でみんな同胞なのだなあと感じます。

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e-hanashi pv20041030
幽翁、伊庭貞剛

10月16日に幕末から大正末までを生きた伊庭貞剛についての座談会をする機会を得ました。号は幽翁。座談会の場所は隠棲の地、大津石山の活機園。しかも、伊庭貞剛の孫にあたる末永山彦氏の奥様がご主人と共に参加していただけ、住友史料館主席研究員で伊庭貞剛の研究をされている末岡照啓氏を交えての豪華キャストによるものでした。こちらは私のほか、FPの伊藤宏一さん、さわかみ投信の澤上篤人さん、渋沢栄一のひ孫に当たる渋沢健さんなどでした。

活機園はちょうど今年でできて100年目です。門を入ってうっそうとした木々の中を進み、ぐるりと方向を変えて歩き続けると目の前に広々とした芝生の庭が広がります。左側には玄関をはさんで木造の洋館と和館が隣り合わせになった瀟洒な建物があります。建物と土地の両方が重要文化財に指定されているそうです。とにかく自然そのままという感じで人為的なものは何も感じられない、すべてがピタッと治まるところに治まっている感じで、いかにも人柄を偲ばせる、落ち着きのある、そこにいるだけでリラックスできる空間でした。座談会はその洋館で行われました。

伊庭貞剛は、幕末1847年、近江の国に生まれました。最初は尊皇攘夷運動に身を投じ、明治政府ができてからは役人となりました。しかし、国の形がだんだん整うに従い、役人の仕事に満足できなくなり、叔父で初代の住友総理事を務めた広瀬宰平の勧めで住友に入社します。彼がその存在感を最も発揮したのは別子銅山の煙害事件の時だったでしょう。公害防止装置などがなかった当時のことです。国策として銅の生産は極めて重要だったのですが、その過程で大量の亜硫酸ガスが発生し付近の住民の健康を害し、農作物に甚大な被害をもたらしたのです。それに社内の紛争なども関係して、幹部、社員、さらには別子の抗夫に至るまでには二派に別れ大騒動が展開していました。

伊庭貞剛は単身、別子に乗り込みます。その時、住友家の家長、友純に「私に別子銅山を潰させて下さい」と言ったといいます。それに対して友純もさすがなもので「お好きなようにしていただいて結構です」と答えたといわれます。前述の末岡さんは、その時の貞剛の「小生は馬鹿な仕事が好きなり、・・・馬鹿な仕事も時にとりては用立事もあるべし」という言葉を紹介してくださいました。飄々とした表現ですが、「火中の栗を拾う」という言葉がピッタリの命がけの仕事だったのでしょう。

こうして貞剛は1984年、別子支配人としてたった一人で赴任をします。現地に着くと彼は何の処分をするでもなく、毎日、山に登り、出会う抗夫たちと何気ない日常の挨拶と会話を交わし続けたと言います。そのうちに抗夫たちも心を開き始め、すさんだ心が落ち着き、貞剛に対しては笑顔で接するようになります。まさに人格のなせる業だったのでしょう。

彼はこの問題の解決策の一環として膨大な植林事業を開始します。公害で禿げてしまった山を元に戻すためです。これは1895年から始まり、彼の死後も絶えることなく1950年まで続けられます。さらに煙害問題を解決する抜本的な策を講じます。瀬戸内海の四阪島全部を買い取り、精錬所全体をそこに移転したのです。この辺、本当に「すごいなあ」と思います。やることの気宇の大きさ、大胆さ、そして植林事業でも分かるような長期的な視野。決して小細工は弄さない。目線の高さと言おうか、志の大きさと言おうか、現代人は忘れてしまったようなスケールを感じます。ちなみにこの植林事業は住友林業という、公害防止のための排煙脱硫技術は住友化学という企業に見事に引き継がれます。

こうして彼は住友のトップの座である総理事になりますが、わずか四年、58歳の若さで引退します。彼は「自分の生きてきた足跡を残さないのが、人生最高の生き方である」としてほとんど、記録を残していないのです。しかし、その数少ない記録のひとつに「少壮と老成」という文章があります。そこに有名な以下の一文があるのです。「事業の進歩発展に最も害をするものは、青年の過失ではなくて、老人の跋扈(ばっこ)である。」(明治37年3月15日号、『実業の日本』)まさに言行一致でトップの座を退いたのです。

貞剛の孫にあたる永末さんの奥様は、本当に「おばあちゃま」という言葉がぴったりの上品な、そして快活な方でした。その「おばあちゃま」が貞剛はしばしば、「自然に返す」ということを言っていたとおっしゃいました。それは山の木が枯れたから植林をして、元に戻すということでもあるでしょうが、もともと我々は、自然からすべてを借りて生きているという意味だったのではないかと思います。さらに命だって自然からの借り物なのでしょう。

彼は1926年、世を去ります。最後まで、ユーモアがあったと「おばあちゃま」は語ってくださいました。死の間際にみんなが唇を綿で湿らせていたとき、ある人が二回目をしようとしたら「あなたはもうやったじゃないか」と言ったこと、大好きな桃がなくリンゴを代わりに出したら「りんご応変(臨機応変)だな」と言ったことなどです。そして「わしはこれからしっかり眠るから、みんな引き取ってくれ」と言って自然に帰っていったそうです。享年80歳。すごいなあ・・・。

貞剛のこのような生き様の根本には剣術で免許皆伝であったこと、禅の道を深く極めていたことなどがあげられるのではないかと思います。明治になり欧化政策が極端に走り、鹿鳴館に象徴されるような時代があったのですが、江戸時代に熟成された文化が消し去られようとしていたときに彼のような人物が現れたことは日本にも幸いだったと思います。

活機園は、洋館と和室が玄関を中心に左右にある建物ですが、それが石山の美しい自然と実によく調和していました。なぜ、活機園を作ったのかを聞かれて貞剛は「外人に日本の美しさを教えるため」と答えたとか。しかし、何よりも貞剛の生き方そのものが、日本人が本来、持っている美徳を象徴しているように思われました。

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e-hanashi pv20041003
江戸時代はすごかった

最近、私は江戸東京博物館の竹内誠館長の話を伺うチャンスに恵まれました。その内容を考えていると今後、人口減少などで経済成長が低下すると言われている日本にとって参考になるヒントがたくさんあるように思います。竹内館長の話と私の感じたことなどを紹介します。

江戸時代は230年続いた訳ですが当初の100年と後半の130年ではかなり内容が異なります。当初の人口は1500万人、米の生産量である石高も1500万石でした。それが幕末にはともに3000万人、3000万石へと倍増しています。しかし、前半と後半では大きく状況が異なります。最初の100年で2500万人、2500万石にまで急成長し、ちょうど18世紀に入ったころから、経済は低成長時代へと移行したのです。

当初、経済の基本方針は徳川家康、秀忠、家光の三代が作り上げた農本主義と鎖国政策にありました。低成長時代になって吉宗の享保の改革などが始まったのですが、18世紀も後半になって登場したのが田沼意次でした。田沼というとどうもあまり良いイメージがありませんが、話を聞いて見ると非常に創意工夫に富んだ人だったことが分かります。まあ、それなりにダーティーなこともあったのだと思いますが、彼はこの徳川家の二つの基本方針を積極的に見直し、低成長時代のなかで経済の活力を生み出す政策を実施しています。100年にわたって続いてきた原則を打ち壊すのは、それは大変なエネルギーがいっただろうと思います。いまの憲法改正論議よりももっと大変なことだったでしょう。

そのひとつが農本主義から流通中心の経済への転換でした。しかもかなりグローバルな視野を持っていました。例えば田沼は鎖国よりも貿易で儲けようと考えたのですね。海外で銅が高く売れると知ると、枯渇していた金山や銀山に代えて、銅山を開発、銅の輸出をしました。さらに輸出用の銅を増やすために銅貨である寛永通宝に代えて真鍮の四文銭を作らせています。また、中国から上等の生糸を持ってきていたオランダ船に、日本から中華料理の素材となる昆布やフカヒレなどの海産物を乗せて中国に輸出しようと考えました。そのために食材の宝庫である蝦夷地の開発に着手しています。貨幣政策もそうです。それまで両替商が天秤で量る秤量貨幣であった銀貨を、重さを表記して名目貨幣としました。それにより金が不足して金貨が高騰したときでも銀貨が代替できるようになりました。つまり、目的をはっきりと持ってそのために必要な手段を打っているのです。 

このような柔軟な発想の改革は政府に限らず民間でも見られます。例えば、三井は元禄時代に急成長をしました。どんなことをしたかというとお客の家に出向いて商売をする「屋敷売り」という方式を「店先売り」に変えたり、「掛け値売り」が一般的だったのを「現金掛け値なし」にしたり、着物の端布(はぎれ)を安く売る商売を導入したりしています。これらのイノベーションがたくさん起こったのです。

先ほど述べた四文銭は真ん中に穴が開いておりそれが鳥の目に似ているというので鳥目(ちょうもく)と呼ばれていました。また、裏に波の模様があるのが特徴でした。古川柳に「そこが江戸 水いっぱいを 波でのみ」というのがあります。これは普通は二文の名水が、それに砂糖を加えて四文で売っていたことを詠んだものです。さらに白玉を入れると十文で売れたといいます。これなどは立派な付加価値戦略ですね。

低成長時代になり販売促進のための宣伝活動も活発になりました。式亭三馬はいまでいうところのコピーライターですが、なかなか本業では食べてゆけない。そのため彼は薬屋も営んでいました。そこでヘチマ・コロンのような「江戸の水」という化粧水を売っています。それをギヤマンの容器と桐の箱に入れて高級感をだしました。しかも彼の作品、「浮世風呂」の登場人物にそれとなく江戸の水の話をさせたりしている。例えば「私どもの娘なども江戸の水がよいと申して化粧の度につけますのさ。なる程ネ。顔のでき物などもなほりまして、白粉のうつりが綺麗でようございます」と言った具合。また、浮世絵などにもそれとなく「江戸の水」という看板を描かせたりしたりしているのです。

技術水準も高度でした。例えば浮世絵の技術。普通、絵師のみが有名ですが、実際は絵師、彫師、刷り師の共同作業です。そして堀師は水に濡れた髪と寝乱れた髪を彫り分けることができたといいます。ばれんを使って色をぼかす高度な技術は刷り師の技です。つまり、ハイテクと芸術性が合体しているのですね。しかも、その浮世絵は単なる日用品で、外国に輸出する有田焼の壷を包む紙として使われていました。それをヨーロッパの画家が見てびっくり、印象派に大きな影響を与えることになるのです。

識字率が高かったことはよく知られています。いろは歌留多の普及で字を覚えたという話を聞いたことがあります。事実、一般庶民も黄表紙などの小説も普通に読んでいたようです。川柳だってそうです。18世紀の終わりにかけて川柳が興行としてはやりました。毎年、8月から12月の間、毎月三回ずつ題がだされ、それに付ける句を日本中の人が応募してきます。作品は幹事が集め、主催者へ届けられ、選者が優秀作品を選ぶ。優勝者は賞金をもらえる。ピークでは一回に2万5000を越える投句があったといいます。ただ字が読めるだけでなく、句を自らつくり、それを競い合っていたのです。明治になりアメリカから教育視察団が来日しましたが、その報告は「何もアドバイスすることはない」という結論だったそうです。

このような文化の発達には鎖国という環境のなかで国民全員の意識が内側に向かったということがあるのかもしれません。拡大指向よりは縮み指向で微細なものを高度化する性向が強まったのではないでしょうか。小さなもの、わずかなものに無限の価値を見出すような文化と言いましょうか。おそらく、時に追われず時を味わうゆとりがあったのでしょう。微妙な四季の移り変わりを味わって、心に栄養を与えていたのだろうと思います。

いま、日本は人口減少経済に入りつつあり経済の停滞が心配されています。しかし、この問題に対する対策のヒントが江戸時代にはあるように思います。もちろん、外部環境が異なるので江戸時代でうまくいったことがそのまま現代で通用するとは思えません。しかし、もっとも大切なことは今から200年ほど前、低成長時代のなかで我々の先祖は素晴らしい日本独自の文化を作り上げたということです。経済政策にもビジネスにも必死に工夫を凝らしてたくさんのイノベーションを起こしたということです。まず、この自信を持つことがもっとも大切ではないかと思います。事実、ジャパニーズ・クールなどと呼ばれる新しい日本文化が海外で評価されはじめているのも事実です。浮世絵のように「粋で風流なハイテク」などグローバルに通用する面白い発想がでてきて欲しいものです。

参考
経済同友会 会員セミナー通信『今日に生きる江戸の文化と経済』(江戸東京博物館 館長 竹内誠氏講演録)

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e-hanashi pv20040828
夏の終わり - 雑感

急に涼しくなってきましたね。数週間前のあの暑さが嘘のよう。しかし、たしかにすごい暑さの夏でした。梅雨が短くって、すぐ猛暑がきて、でも8月も半ばになると暑さも少し和らいできて・・・。台風も例年と全然コースが違うし。我々のわからないところで地球を含む宇宙の体系がちょっとだけ変化しているのかもしれません。

ところで私、結構、占星術というのは信じているのです。非科学的な!と思う人も多いと思います。でも考えてみてください。人類が現在、持っている科学では説明できないけれど、それは科学が十分に発達していないからだとも思うんですよね。たとえば、月の位置で地球の海の水が引っ張られて満ち潮、引き潮が起こります。これは誰も疑問はさしはさまないでしょう。人間の体にはたくさんの細胞があります。それはみんな水を含んでいます。この細胞のなかの水だって月の位置によって引っ張られているのを知っていますか?考えてみれば当たり前ですよね。結局、人間だって宇宙の一部だということです。だからこの世に生まれた瞬間の星座の位置によってその人のなかの体質とか気質のような何かがイニシャライズされて、それに影響を受け続けて行くことは十分ありえると思うんです。例えば生まれたときに非常に大きな影響を持った星がその位置に戻る時、その人はなぜか気分が落ち着くと言ったことは十分あるのではないでしょうか。

あれほどうるさく泣いていた蝉の声もすっかり静かです。朝、会社へ行く道に死んだ蝉が落ちています。体中を空っぽにするほど鳴いてぽとんと道端に落ちています。それにたくさんの蟻がたかってみんなで運んでいます。これで蟻たちはきびしい冬を生き延びることができるのでしょう。蝉の命が蟻の命に変わって命の流れが続いて行くのでしょう。

そう思ってまわりを見回すと夏の終わりはたくさんの死があふれています。春夏という生命が燃え上がるような時期を過ぎて、秋冬という次のサイクルに備える時期に移行しつつあるからかもしれません。植物も動物も世代が交代する時期のような気がする。いつもこの時期、少しだけ「死」のことを考えてしまいます。私も妻も死んだらお葬式はしないで散骨を希望しています。せめて死んだ後ぐらい、せっかく肉体という衣を脱いだのだから、広々したところでのんびり、ゆったりしたいですからね。

中国の荘子が臨終の時のことです。弟子たちが立派な棺桶を用意したのにそれを拒む師に「それでは、先生のお体が、鳥に食われてしまいます」と言います。それに対して荘子は「地上に放置すれば、鳥に食われもしよう。だが、地下深く埋葬したとて、いずれは虫の餌となるのだ。ことさら一方から取り上げておいて他方に与えるのは不公平というものではないか」(中国の思想 第12巻 「荘子」 岸洋子訳、徳間書店より)と言います。ここまで達観できるとすばらしい。

また、中国の易経に「天行は健なり」という言葉があります。人間や動物の個体としての都合とは関係なく宇宙(天行)は健やかに休むことなく何億年にもわたって進化している。我々みんなその過程に発生するあわのようなものです。人間の個体としての知識や都合でこの世の中を見るから色々なコンフリクトが起こり不可思議に見えることが起こってくる。でも大きな宇宙の働きから見ればすべて当たり前の出来事でしかない。異常気象も、星が人間に与える影響も、命のサイクルも、みんな同じことです。

夏が終わると急に時間のたつのが早くなります。地球の回転が速くなるのではないかと思うほどです。あっというまに年末、忘年会、クリスマス・・・、そしてお正月。12月は私の誕生月。あ〜ぁ、また、ひとつ歳とるのか。行く夏を惜しむ気持ち、そして若さを惜しむ気持ち、どちらも「天行は健なり」ということは分かっていても少しさみしさを覚えます。

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e-hanashi pv20040816
瀕死のヒナとの出会い

昨日の土曜日、相変わらず暑い日でした。ジムで一泳ぎしてサウナに入り家に帰ってくる途中、コンクリートの道端に小さな肌色のものが見えました。「あれ、何だろう」と思ってよく見ると鳥のヒナです。ウブゲも生えておらず目も薄い膜でまだ覆われているような4〜5センチぐらいの小さなヒナです。上の方を見るとそんなに高くない木があったので「きっとあの上の方に鳥の巣があってそこから落ちて死んでしまったのだろう」と思って行き過ぎました。10メートルぐらい歩いたのですが何となく気になってもう一度、その場に戻ってみました。

ほとんど動かないのですが見ていると少しくちばしが動いたような気がしました。さらにじっと見ていると驚いたことに、確かにくちばしをゆっくり開けたり閉じたりしているのです。瀕死の状態ながらいつか親鳥が来て水やえさをくれるかもしれないという期待を込めてくちばしを全力で開けているようなのです。そのヒナにとってはくちばしを開けることこそ生きるための最大の努力だったに違いありません。

さて、私もどうしたら良いのか困ってしまいました。うちに連れて帰ってもヒナが育つかどうかわかりません。それにくちばしを開いていると言っても体のほかの部分はぜんぜん動かないしもうほとんど死んでいるのも同然です。ちょっと思案したのですが結局、熱いコンクリートの上で命を落とすのも苦しいだろうし、死体が道路の道端に放置されるのもかわいそうなのでそっと拾い上げて、人目のつかない近くの日陰の土の上に移してやりました。そうしたらなぜかくちばしの開け閉めもしなくなって動かなくなってしまったのです。

どんな生き物だってこの世に生まれてくるのはその理由があるといいます。動物だって植物だってそうです。すべてこの宇宙の進化をサポートするために目的を与えられてこの世に生まれてきているのです。その命がたどる運命はその個体には苦しい結果となるものであってもより大きな目的のためには必要な犠牲なのでしょう。あのヒナは果たしてどんな目的を与えられてこの世の生まれてはかない命を生きたのだろう、そんなことを考えます。もしかしたら私とあのような形で出会って私にこんなことを考えさせるために生まれてきたのかなとも思います。

そんなことを考えるとあのヒナがとても尊いものに思えてきます。多分、大きな存在からのお使いだったのでしょう。神さまと呼ぼうが仏さまと呼ぼうが何か大きな存在からのメッセージを携えて私と出会うために生まれてきたのかも知れない。そう考えるとちょっとシンとした気持ちになります。これから、あのヒナを移してやった日陰の辺りを通る時は感謝を込めてお祈りでもしてあげたいと思います。

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e-hanashi pv20040803
おカネと幸福について


<誤解されたおカネの不幸>

どうもおカネには後ろめたさのようなネガティブなイメージがつきまとうようです。よく「そんなにカネ、カネってカネのことばっかり言うことないだろう」とか「おカネなんかで計れないもっと大切なものがあるよ」と言ったコメントを聞きます。何となくおカネって汚いもののイメージがあったり、財を成した人を見ると「きっと何か悪いことをしたに違いない」と思ってしまったりすることもあるようです。また「清貧」とか「武士は食わねど高楊枝」という言葉もあります。日本ばかりでなく海外でも結構、「おカネ=悪」というイメージを持っている人がいるようです。アメリカあたりの投資の本を読んでいるとまず、このネガティブな考えを払拭することが必要であると言うようなことがよく書いてあります。こうなってしまった原因はおカネの役割が誤って理解されてしまったからではないかと考えられます。

おカネには一般に三つの役割があると言われます。価値の尺度、交換・決済手段、価値貯蔵手段です。物々交換の時代にはりんご3個とみかん6個を取りかえるというようなことが行なわれていたのですが、これだと価値の基準に統一性がなくて不便です。人類はおカネを使うようになってすべての商品やサービスを値段という同一の価値の尺度で測れるようになりました。そして、おカネを介在させることで異なる価値の物と物を交換できるようになりました。これが交換手段、あるいは決済手段としてのおカネの役割です。これで交易が大いに拡大したのは言うまでもありません。また、物をおカネにしておくことで将来に向けて価値を蓄えることが可能になりました。りんごのまま持っていたら腐ってしまいます。しかし、おカネにしておけばその心配はいりません。これがおカネの価値貯蔵手段です。

こうしておカネによって人間の経済活動は格段に便利になりました。しかし、同時に副作用も生み出しました。例えば、価値の尺度としてのおカネはすべてを値段で表示します。しかし、満足感とか幸福感と言った主観的な要素を数値で表すのはなかなか難しい。そのことから「カネばかりがすべてじゃないよ」という考えがでてきたのでしょう。また、おカネを介在させて売買をするとき、それは売り手と買い手の間で価値が均等だと納得する価格での交換を意味します。それにもかかわらず誰かが金持ちになるということは「相手の犠牲のもとに自分が儲けている」、「きっと何か悪いことをして人をだましているのではないか」とあらぬ疑いをかけられてしまうことになるのです。このような誤解はおカネにとってとても不幸なことです。

<おカネは感謝のしるし>

ここでこれらのイメージを一度、全部、捨てて、根本に戻っておカネというものについて考えてみましょう。おカネというのは我々が眠いのに早起きをして仕事をしたり、大事にしているものを手放したり、汗をかいて労働をしたりしてその代わりに受け取るものです。なぜおカネがもらえるかというとそのようなサービスやモノを受け取った相手が喜んでいるからです。その人が我々に対して感謝をしているからです。感謝のしるしとして自分の持っているおカネを払ってくれる。もちろんその人が払ってくれるおカネも元を正せばその人が他の人から感謝をされて受け取ったものです。そう考えると人と人の間で感謝のやり取りが行われていてそのしるしとしておカネが流通しているのだと言うことがいえます。さらにおカネが貯まるということは人から受け取った感謝が蓄積しているのだと言うこともできるのです。たくさんの人に喜ばれることをするほどその感謝のしるしとしてのおカネも貯まってゆく。

これは何も個人に限ったことではありません。法人、つまり会社も同じことです。本来は会社だってお客さまのためになる良いことをしているからお客さまはその感謝のしるしとしておカネを払ってくださる。それが企業にとっての収入になっているのです。お客さまに付加価値を提供する。そうするとお客さまはその付加価値のなかから一部をお礼としてその企業に報酬を払ってくださる。それが企業の売上になりその売上からまた次のサービスを提供するために必要とされる費用が捻出され、また、従業員の収入になり株主にとっての投資リターンとなっているのです。

こう書くと、「自分は世の中のためになる良いことをしているのになかなか生活がちっとも楽にならないのはどうしてだ」という声が聞こえてくるようです。この場合はいくつかのケースが考えられるでしょう。まず、考えられるのは自分が世の中のためになると思っていても本当はそれ程、役にたっていないという場合です。例えば、自分の属する会社のために一生懸命、働くことはその会社の株主や同僚にとってはとても良いことです。でも会社にとって良いことがそのまま社会のためにならないことも考えられます。だから後で述べますがより大きな立場にたって良いことをすることが必要なのです。それから本当に良いことをしている場合でも、その見返りは長期的に報われるもので感謝のしるしがいますぐくるものとも限りません。大切なことは心の満足感の問題ですから必ずしもおカネがすぐに降ってくるわけではないのです。 

また、「そんなのはきれい事だよ。世の中には悪いことをして儲けている奴がたくさんいる」と思う方も多いかと思います。たしかにそのような人もいるかもしれない。そのような企業もあるかも知れない。しかし、そんなことをずっと続けることが可能なものでしょうか。短期的にはともかくやはり人を犠牲にするようなおカネの儲け方はいつか続けることができなくなる。そして普通、手痛いしっぺ返しが待っているものです。また、そのようなカネ儲けを続けている人々は心の奥底で良心が痛むことだろうと思います。満足感を求めておカネを稼いでいるのにそれでは何のための労働か分からない。

だからやっぱり感謝されてその証としておカネを稼ぐのが一番、正しい稼ぎ方だし、それが長期的に収入を得ることができる唯一の方法です。世のため、人のためになることを行なうことによってのみ持続的におカネを稼ぐことができる。人に喜ばれること、感謝をされることが固まっておカネになっている。それが貯まってゆくということはそれだけたくさんの良いことを行なったということだからむしろ誇るべきことなのです。いや、誇れるような稼ぎ方をしていないと長い期間にわたって収入を維持することは不可能です。

<幸せなおカネの使い方>

それでは正しいおカネの使い方というのはどのようなものでしょうか。おカネの使い方を考えるときに二つの座標軸が考えられます。つまり、自分を中心として家族、友人、会社、社会、国家、人類と対象とする範囲が広がって行く軸がひとつ、そしてもうひとつが現在から未来へ連なる時間軸です。一番、単純なのは現在という一時点において自分という一個人のみが喜ぶおカネの使い方があります。それを広げて家族のために使うおカネ、自分の属するコミュニティーのために使うおカネ、国のために使うおカネ、そして世界のために使うおカネとその範囲は広がって行きます。対象が広がるほど自分がより大きなもののために役立っていることになり幸福感も増加してゆきます。



さらに現在という時点のみでなく5年後、10年後、100年後、そしてもっとずっと先を見据えたおカネの使い方もあります。例えば自分のためにおカネを使うのでも今日、おいしいものを食べる、5年後の自分がより成長できるように今の自分に教育投資をする、老後の自分のために財産形成をするなど、みな違った意味合いを持っています。いまの自分を喜ばすためにおカネを使って得た幸福感はすぐ過去のものになってしまいます。その目的とする時点が先であるほどその喜びが継続する時間が長いものです。おカネの使い方が「現在」と「自分」という原点に近いほど得られるのは短期的な五感レベルの幸福感です。それがより広い範囲を対象としより長期になるほど心の奥底に深く染み入るような永続的な幸福感に変わってゆきます。所詮、おカネが大切なのは自分に幸福をもたらすからです。で、あるならできるだけ至福感を味わえるような使い方をした方が良いでしょう。

<おカネを求めるマネー投資から幸せを求める「超」マネー投資へ>

投資という言葉を聞いてまず思い浮かぶのは証券投資でしょう。証券投資は自分の貯えたおカネを他の人や企業に預けて世の中のためになることに活用してもらい、それによって生じる利益の一部を投資家が受け取るものです。だから投資するのもおカネなら受け取るのもおカネです。感謝が回りまわってまた、自分に戻ってくる。「戻ってくる」から投資収益を「リターン」というのです。有価証券に投資することで自分ひとりではとてもカバーできない広い範囲を対象として、より長い時間軸でのおカネの役立て方が可能となります。その結果、自分にもたらされる幸福感もまた大きくなります。だからある意味、証券投資は幸福感を増幅する手段であるともいえます。

おカネを幅広い企業に活用してもらうのは分散投資ですし、長期にわたって活用してもらうのは長期投資です。投資理論ではともにリスクを削減する上でもっとも有効とされる手法です。分散投資と長期投資をすることでリスクが削減でき、しかも幸福感も増大するように証券市場ができているところに限りない興味を覚えます。証券投資の特色はおカネを投資に回して自分のところに戻ってくるリターンもやはりおカネです。その意味ではこれはおカネのリターンを求めるマネー投資です。

しかし、投資というものは証券投資に限定されたものではありません。例えば個人の住宅の取得、自分自身や子どものための教育投資なども立派な投資です。経済学的にはともかく、心情的には自動車などの耐久消費財の購入も投資と似た面があります。最初におカネを払って取得したものから将来にわたって満足感を得てゆくからです。車や住宅、教育などにおカネを投資した場合、得られるリターンはおカネではありません。例えば、かっこ良い車に乗る満足感や居心地の良い住環境、あるいは新たな才能の開花による自己実現などがリターンです。つまりこの場合のリターンは金銭的リターンではなくメンタルな満足感なのです。ただ、その満足感は個人的なものにとどまっています。

リターンをおカネと限定しなければ寄付やフィランソロピー活動も投資といえます。私は父が亡くなったときにいただいたお香典でラオスに学校を建てました。また、いまもインドの教育機関に定期的に寄付をしています。そしてきっといつか私の寄付で育った子どもたちがそれぞれの国の発展と世界平和のために活躍してくれるだろうという夢を持っています。ある意味、私は寄付という投資を行なってこの夢というリターンを受け取っているのです。これは個人的な満足よりももっと大きな喜びを社会に提供していると言えます。しかもこれは永久に続きます。五感を刺激することはないけれど心の奥に沁み入るような幸福感です。これは投資したのはおカネですがリターンは幸福感。幸福をリターンとする「超」マネー投資です。

結局、世の中のためになることをして世の中に感謝され、それがまた自分の喜びになる。この好循環が円滑により幅広くできるようにするための手段がおカネであり、それを自分だけではできないほど幅広くできるようにするのが投資だということです。良い稼ぎ方をして貯まったおカネを良い使い方をすることで本人も周りの人もますます幸せになります。リターンとしての幸福感もマネー投資、超マネー投資と進化してゆくことでより深めて行くことが可能になります。このような視点からおカネの稼ぎ方、使い方、投資や寄付というおカネに係わるさまざまな側面を考えてみることは資本主義、市場経済の進化のためにも必要なことではないかと思います。


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e-hanashi pv20040710
自分の年金は自分でつくる!

今日、「自分の年金は自分でつくる!」(実業之日本社、1500円)という本が発売になりました。著者はフィナンシャル・プラナーで税理士の伊藤宏一さん、さわかみ投信の澤上篤人さん、エコノミストの真壁昭夫さん、投資顧問会社勤務の平山賢一さんと私です。この五人は以前にも紹介した月刊誌「インベストライフ」(e-hanashi pv20031221参照)の編集委員仲間です。我々、毎月、編集会議で議論を続けるうちに年金問題についてある結論に達するようになりました。

たとえば、
1.これからは政府や企業におまかせしておけば老後は面倒みてもらえると考えるのは幻想である
2.年金としてもらえる金額だけでは生活はできない、お小づかい程度と割り切るべき
3.若いうちから将来のために蓄えを作り始めるほど負担が少なく十分な資金を準備できる
4.そのためには毎月、お金が余ったら貯蓄や投資をするのではなく、最初から一定額を貯蓄や投資に回し残った資金で生活することが必要である
などの点です。

そこへちょうど出版社からこのテーマに沿った単行本をだしたいとの依頼があり、五人とも喜んで一気に書き上げたのがこの本なのです。その内容は以下のようなものです。

第一章 これからの老後資金は「攻め」と「守り」で考える(伊藤さん)
第二章 そもそも年金って何?これからどう用意していこうか(平山さん)
第三章 DIY年金運用の実際 − 手づくり年金運用はプラン、ドゥ、チェックのサイクルで(岡本)
第四章 個人投資家の利点を最大限に利用しよう(真壁さん)
第五章 長期運用を貫くための「投資の心理学」(真壁さん)
第六章 経済と長期運用と自分の年金づくりと(澤上さん)

それぞれの著者が各章を担当して書いています。執筆陣は「自分の年金は自分でつくる」という大きな考え方で一致しており、それぞれの専門的な角度からのアプローチによって、各章のテーマが浮き彫りになるようにしています。もちろん全員の意見が一致していない部分もあります。でも、このような意見の違いを自由闊達に議論しあうのが我々のいつもなのです。

私は第三章を担当しています。この章では、具体的な投資運用の方法論について説明しています。まず、地球から打ち上げられたロケットが、月に行くことを考えてほしいのです。アポロ13号のようなものです。ロケットは地球から、細心に計算された方向に向かって打ち上げられ、軌道に乗って月へと向かっていきます。そしてそのまま何事もなく月面に着ければ、めでたし、ということになるわけですが、実際にはいろいろ予期しないことが起こります。システムにトラブルが起きて、地球との交信が途絶える、機体の一部が故障する、乗組員が病気になる、その他、ありとあらゆることが起こりうるわけです。月への旅ではそれらに対処しながら、最終目的地である月に到着する確率が最大化できるように努力を続けていきます。アポロ・プロジェクトが成功した当時、「システム工学の勝利」と賞賛されたものです。

70年代になってこの「システム工学的」なアプローチがアメリカの年金運用の分野で活用されるようになりました。長期的な目的のために運用をして行くのですがその途中で色々な事件が起こります。予期しないできごとのなかでコントロールできることを最大限にコントロールしてゴールに到着できる確率を常に最大化して行く。私の章ではこのようなアプローチを使って個人投資家が自分の年金をつくるときにどのようにしたら良いのかをやさしく解き明かしています。

具体的には

1.プラン→ドゥ→チェックというサイクルを繰り返して行く時の留意点
2.年齢と共にリスクをどのように削減して行くか
3.株式や債券でポートフォリオを作る際にどんな方法があるのか
などについて触れています。

実際にプロの世界で行われている合理的な方法を個人でも使えるように説明することを心がけました。私はこれをDIY(Do-It-Yourself)年金運用と呼んでいます。私のいままでの著書はほとんど専門家向けのものばかりでした。今回が初めての一般投資家向けの本です。表現はやさしくしてありますが、内容的にはプロの知識を噛み砕いたもので、かなり高度なものであると自負しています。是非、書店で手にとって見てください。


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e-hanashi pv20040705
ホーミイ

大分、以前のことですがNHKでモンゴルの唱法、ホーミイについて取り上げていました。確かその時はホーメイという呼び方をしていたのではないかと思います。初めて聞いたホーミイは不思議と心に残る音楽でこの耳慣れない名前を早速メモしておきました。その後も時々、思い出してはいたのですがつい最近、そのホーミイのCDを発見し買い求めて何度か聞いて見ました。私が見つけたCDは以下のサイトにでています。

http://www.soundtransformations.btinternet.co.uk/mongolianCDhoomiiandurtybduujvclinarnotes.htm

不思議な音楽です。日本では「のどうた」とも言われているようです。なにしろ一人の歌手が二つの声を同時に発するのです。インターネットでホーミイについていくつかのサイトを調べてみるとどうも英語の「L」の発音の形でうなり声を出すと通常の声と別に裏声のような高調波が響き、それが低音の声との間に複雑なハーモニーを生みだすと言うのです。それも@喉をしめて口蓋の奥から音をだす、A喉をしめて喉の骨格から音をだす、B体の上体、鼻と喉を連動させて粗い低い複雑な音をだすなどという色々なテクニックがあるようです。ちょっと信じられないけれど本当なのです。

しかし、この音楽、どこかで聞いたことがあるなと思ったら日本の民謡でした。比較的単純なメロディーにコブシを使って歌うのはまさに民謡。もっと言えば日本の歌謡曲的なところもあります。それからもうひとつ似ているのはインドのヴェーダの吟唱。私は毎日、ヴェーダの吟唱を聞くのを日課としています。この吟唱は心の奥底に直接響くような音楽です。この時空ができてから宇宙の底流でずっと流れ続けている波動のようなものを感じさせる音楽です。ホーメイにもそれと似たものが感じられます。

私は専門的なことは何も知りませんので単なる素人の空想でしかありませんが、もしかしたらモンゴルを中心に活躍していた騎馬民族がインドでヴェーダに触れて民族の文化のなかに取り入れたことがあったかも知れません。また、日本に騎馬民族が渡来したときにその音楽も一緒に持ってきてそれが日本の民謡などにも多くの影響を与えたこともあったでしょう。

そう考えると時空を越えて中央アジアからを音楽が広がっていった様が想像できて楽しいですよね。とにかくこの音楽、ただ聞いているだけで広々とした荒野を吹き抜ける風のようなすばらしさを持っています。日々の小さな細かいことなど忘れて自然と一体になった幸せを感じられる。そして不思議な「なつかさ」がある。是非、一度、聞いてみてください。

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e-hanashi pv20040625
投資教育の前に「お金の大切さ教育」を

去る5月22日に金沢で雑誌、インベストライフの講演会がありました。そこで私も編集委員の一人として講師をしました。そのとき、非常に面白い質問があったのでまず、それを紹介したいと思います。それは若いご婦人の質問で「うちには子供が二人います。それぞれお小遣いの使い方がまったく違います。長男はしっかり貯めるタイプ、次男はもらうとすぐ使ってしまうタイプ。これらの子供たちにどのようなお金の使い方の教育をしたら良いのでしょうか」というものでした。その質問に対する私の答えは最後に書きましょう。

私の長年の友人に日興フィナンシャル・インテリジェンスの投資教育研究所長をしている平岡久夫さんがいます。少し前ですが米国における投資教育について彼の話を聞く機会を得ました。時々、テレビなどでもアメリカの高校生が株式市場ゲームをパソコンでやっている姿が投資教育として紹介されたりします。私の投資教育に関する知識もその程度のものだったのですが、彼の話を聞いて実はその背後には経済教育、金融・資産管理教育などが幅広くかつ全生涯を通じて行われているのを知り驚きました。

びっくりするデータを紹介しましょう。米国における高校生向け教科書では金融と財政に116ページが費やされています。一方、日本はどうでしょうか。たったの3ページです。そう、3ページ。経済全体ではアメリカが544ページ、日本が82ページだけです。アメリカの高校教科書では経済をベースに金融や証券、投資、貯蓄、フィナンシャル・プラニングなどの細かい説明がされます。「リスク・ピラミッド」が示され、株式、債券、投信、ジャンクボンド、不動産などをハイリスク、ミディアムリスク、ローリスクに分類し、利回り、リターン、リスク、流動性などの概念も解説されています。これらの教育をサポートするのは主としてNPOだそうで、生徒の教育のみならず先生にも幅広い教育が施されています。

もっと驚いたのは幼稚園から小学校低学年の生徒向けの教育でした。この学年で、子供たちは「希少性と選択」、「機会費用とトレードオフ」、「生産性」、「経済システム」、「経済機関とインセンティブ」、「交換・貨幣および相互依存」、「市場および価格」、「競争と市場構造」、「政府の役割」などを学ぶことになっています。といっても堅苦しい授業ではなく楽しく学べるような工夫がされています。

幼稚園から小学校低学年向けのプログラムを紹介しましょう。

「ある王国では今まで魔法使いが魔法でモノが不足しないようにしてきました。しかし、あるとき休暇を取ってしまったため、王様のパーティーでチキンやバター、ポテト、アップル・ソースが不足して全員に行きわたらなくなってしまいました。騎士たちは『戦って勝った人がもらえばよい』と主張しますが王様は困ってしまいます」。と、いうことで生徒たちが解決策を提案します。「王様が分ければよい」、「くじ引きで決める」、「必要な人を優先する」、「一番高いお金を出す人がとる」などです。それを先生がまとめてゆき「資源は有限であり、何かを得ることは何かをあきらめることを意味する」ということを学ばせてゆきます。

もう一つ。

子供たちが「テディーベアのピクニック」と呼ばれるパーティーを開催し親を招待します。手作りの食べ物コーナーやゲームのコーナーを設け、食べものやゲームなどの利用料を決めます。同時にテディーベアの絵のお札を作り一人20枚ずつ持ちます。こうして子供たちは小さな模擬社会の中で経済活動をシミュレーションするのです。ここで学ぶことは@人は財やサービスを生産するときに貨幣を得る、A財やサービスを購入するときには貨幣を使う、B収入と支出は循環するということを学んで行きます。

こうしてアメリカではリスクテークとかトレードオフということが子供の頃からカルチャーとしてしっかりと植え付けられていきます。以前、タレントのダニエル・カールさんが日経の「こどもと育つ」というコラムで次のように書いていました。「こどもには『お金』はもらうものではなく、稼ぐものだということをしっかり身につけて欲しい。うちは小遣いはやらない。その代わり、家事手伝いの報酬としてお金を払う。時給は800円。しかもその半分は必ず貯金するというルールも決めてある。この貯金は名づけて『カレッジ・ファンド』。息子が大学へ行くときの資金にしている」。一般的な日本の家庭との違いを感じます。

投資教育はピラミッドの頂点のようなもの。それを支えるのが経済や金融に関する教育です。それがないと投資教育と言っても「いま、株は買いか売りか」とか「どの銘柄がもうかりそうか」などという表面的な現象を追うことになってしまいます。しかし、アメリカでの教育を垣間見るとピラミッドの底辺に更に広い教育があるのが分かります。つまり「お金というものは稼がないともらえないものだ。そして稼ぐということは自分が何らかの付加価値を他の人のために提供しないと成り立たないのだ。時に自分のしたいことを我慢して働かないとお金は手に入らないのだ」という「トレードオフ」の関係を徹底的に叩き込む教育がされているのです。これによって子供たちはお金の「大切さ」や「ありがたさ」を学んでゆきます。稼いだお金をどう使うかという投資教育や消費者教育の前に「お金の大切さ教育」があるのです。そしてこれが小学校入学前から行なわれているところがミソです。

さて、金沢の講演会での私の答えを書いておきます。

「それぞれのお子さんがどのようなお金の使い方をするかということはそれほど、重要なことではないと思います。性格も違う以上、お金の使い方は違って当然ですし、それが個性というものです。あまり『こうあるべき』という型にはめない方が良いのではないでしょうか。子供たちは実体験のなかで成功したり失敗したりしつつ自分に合ったお金の使い方を学んでゆけばよいのだと思います。

それより大切なのはまず、『お小遣いは自然にもらえるものではない』ということを叩き込むことではないでしょうか。お金は労働の対価です。遊びたいのを犠牲にして家事の手伝いなどをして初めてもらえるものです。この点をきちんと徹底すればお金の大切さが分かってきて自然に使い方も正しい方向に向いてゆくはずです。」

日本の子供たちは概してお小遣いをもらえるのは当然だと思っています。ハイティーンになればアルバイトもある程度するでしょうがでも、親の脛かじりが一般的です。成人して就職します。最近でこそ少し変化しつつありますが終身雇用制度と年功序列制度の下でひとつの会社でおとなしくしていれば典型的ライフスタイルに合わせて給料も上がってゆきます。そして60歳になって定年を迎えればその後は結構、手厚い年金がもらえたのです。このエスカレーターのような人生ではお金は自然にやってくるものです。ですから人生を通して『稼ぐ』ことの意味を考える機会が十分に与えられていないのではないでしょうか。日本でも投資教育の必要性が叫ばれています。それは事実ですがもっと重要なのは幼児時代からの「お金の大切さ教育」ではないかと思います。


参考資料
米国における投資教育の現状 2001年3月 証券団体協議会議
米国、英国の経済・金融・投資教育 - 日本が学ぶべきもの - (2003年3月14日、日興フィナンシャル・インテリジェンス(株)副理事長、平岡久夫 経済同友会産業懇談会例会用資料より)


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 e-hanashi pv20040529
懐かしのニューヨーク旅行

私は学生時代に二年間、証券会社にいたとき転勤で九年間ニューヨークに住みました。仕事でいたときは妻も一緒で娘もそこで生まれ七歳まで育ちました。今年は日本に帰ってきてちょうど20周年。しかも、ニューヨークから一緒につれてきた猫のアップルが昨年5月に19歳8ヶ月で亡くなって一年がたったこともあり5月13日から17日まで家族そろってニューヨークへ行きました。

私は海外出張が多いのですが最近は勤務先の本社があるサンフランシスコが中心でニューヨークは4年ぶりでした。JFK空港からタクシーに乗ってマンハッタンに到着、ホテルにチェックインしてから街にでてまず驚いたことは人が多いこと。しかも、その人々があたふたと動き回っている。みな何か目的があるかのようにエネルギッシュに足早に動き回っている。自分の仕事の目的か、あるいはちょっとうさん臭い目的かは分からないけれどとにかくみんな忙しく動き回っている。ぶらぶら歩いている人は少なく、当然、雑音もすごい。よく見れば人種の多様性も一段と増したかのようで世界中から一攫千金を求めて、何かうまいことを求めてみんなが集まっている感じでした。これは東京ともサンフランシスコとも違い、またかってのニューヨークとも違って、一番、強い印象を受けたことでした。

滞在中の一日は家族で昔、住んでいたリバデールを探訪しました。よく行ったスーパーマーケットや子供の行っていた小学校(いまは廃校となり個人邸宅となっていました)、赤い扉の教会に付属した幼稚園などを見て、かって住んでいたアパートへ。昔そのままのたたずまいに感激。しかも、ドアマンなど昔と同じ人です。20年ぶりにあったのにちゃんと覚えていてくれて「あの102号室にいた家族だろう」と言ってくれました。ちょっと感動。廊下を隔ててお向いに住んでいた歯医者さんのご夫妻にも面会。とてもとても喜んでくれて近くのWave Hillという公園に連れていってくれサンドイッチのお昼をご馳走になりました。決して贅沢ではないけど落ち着いた幸せな生活を感じました。この日の夜は同じアパートで親しくしていた方とお嬢さんとこれも昔懐かしいお寿司屋さんで夕食。みんなアッと言う間に20年間をタイムスリップした感じで楽しいひと時でした。残念ながらブラジル出張中で参加できなかったご主人からは食事中に携帯に電話をいただき話も少しですができました。懐かしいことの一杯の一日でした。

別の一日、マンハッタンでは昔から大好きだったグーゲンハイム美術館やメトロポリタン美術館を見学。近代美術館が閉館中だったのは残念。でもすばらしい絵画をほんとに間近で見ることができ感動でした。また、日本の芸術のコレクションの立派なことにも驚きました。週末の良い天気の日、みんなが思い思いに明るい太陽を楽しんでいるセントラル・パークを散歩して72丁目のダコタ・ハウスの辺りに。そして地下鉄でかって学んでいたコロンビア大学のキャンパスへ。昔住んでいた寮なども見て、また、地下鉄でグリニッジ・ビレッジにでてフラフラ。

あと一日はローワー・マンハッタンへ行きました。まず、グラウンド・ゼロへ。かってワールド・トレード・センター(WTC)のあったところです。1965年、私が学生として初めてニューヨークに行った時はWTCはまだありませんでした。1975年にブラジルのサンパウロからニューヨークに転勤になったときはすでに建っていて毎日、WTCを見ながら通勤をしました。ニューヨークへくるたびにトライボロ・ブリッジからWTCを見ると「あぁ、ニューヨークへ来たんだ」と思ったものです。それがごっそりと大きな穴になってしまっている。まだ、たくさんの死者の魂がこの地にしがみついているような、テロへの怨念が渦巻いているような、何とも言えない感じのところです。なんでもここにまた高いビルを建てるとか。私はやっぱりここは静かな公園か何かにするべきではないかと思います。すべてを飲み込んだ深い穴を隔てる金網の金属部分に祈りの言葉が落書きされているのが印象的でした。一方ですでに地下鉄の駅もできており力強い復活のエネルギーも感じられます。そこから昔、私の会社のあった赤いサイコロのある140 Broadwayのビルを通り、ニューヨーク証券取引所経由でバッテリーパークへ。さらにチャイナ・タウンで飲茶をたっぷり食べました。昔も週末の午前中など家族でよく飲茶に行ったものです。



それからミュージカルのLion Kingを観賞。歌と踊りのミュージカルに新しい要素がたくさん加わった作品なのでしょう。座席も一番前から4列目のど真ん中。さすがロングランするだけあり見ごたえがありました。特に動物の動きが踊りと溶け合い本物の動物を見ているような錯覚にとらわれます。「文楽の人形を見ているような心地」と娘が言っていましたがうまい表現だと思いました。やっぱり本場だけあり底力を感じさせるミュージカルでした。

おいしいものもたくさん食べました。BSEなどどこ吹く風でステーキ屋さんは大繁盛。我々もこの際、思い切ってでっかいステーキやたっぷりロブスターの身が入ったリゾットなどを食べました。ともかくさすがニューヨークという街は世界の中心。その渦巻くようなエネルギーはすごい。そして芸術も食もショッピングもすべてが奥が深い。一枚めくれば地が現れるというのではない奥深さがあります。比較的短期間でしたが中身の濃い旅行でした。想い出にもたっぷり浸ることができたし新しいエネルギーを注入されたような気がしました。

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e-hanashi pv20040511
「若者よ、カネを貯めろ!」 − 年金問題のおさらい

いまほど年金問題が世間の注目を浴びたことはなかったと言ってよいでしょう。前回、人口問題について書きましたがそれとも深い係わり合いがあり、年金運用は私の会社の仕事でもあるので今回は年金問題についておさらいをしたいと思います。なぜ、年金がこれほど問題なのか。理由は三つあります。ひとつは制度の問題、二番目が制度の運営上の問題、そして最後が市場の問題です。

まず、制度の問題。一口に言えば現在の年金制度ができたときに想定していた正常な人口ピラミッドと経済の高度成長という前提が変わりつつあるということです。経済は成熟化し、しかもこれから人口ピラミッドがひっくり返る。前提が変わっているのだから制度もひずみがでてきて若い人ほど払う額に対してもらう額が少ないという世代間の格差や世帯形態によってもらえる額が違うという世代内での格差が表面化しつつあります。これに対して現在、国会で審議されている「改革案」は基本的には@年金保険料を増やす、A受給額を減らす、B受給時期を遅らせるという三つの要素の組み合わせで解決しようとしている。ここに一番の問題があります。そして今回も制度の抜本的な見直しは先送りになりそうです。少子化、高齢化が進む中、そんな悠長なこと言っている場合じゃないのに・・・。このような不信感が国民年金の未加入とか未納などの問題を起こしているのでしょう。

公的年金は賦課方式です。言い換えれば世代間の助け合い。若い人がお金をだして退職した人たちをサポートする。一方、企業年金は積立方式です。働いている間、お金を積み立ててそのお金を退職後、年金として受け取るという方法です。公的年金は賦課方式だと言いながら、これまでずっと収入が支出を上回っているのでそれを積み立ててきました。その積立金が150兆円になっています。この150兆円という金額は毎年の支出額(年金の支払い額)の6年半分という巨額のものです。しかし、仮に公的年金が積立方式だったとするとこの資金を全部使ってもすでに支払いを約束してしまっている債務を充たすには430兆円もの資金が不足すると言われています。つまり、賦課方式としては大きすぎるし、積立方式には小さすぎる規模なのです。いま、政府はこれを「修正積立方式」と呼び150兆円の資金を運用しその収益を支出の一部に充当するというやり方をとっています。この巨額資金の存在が次に述べる二番目の問題を引き起こしています。

それが制度の運営の問題です。この積立金という膨大な資金を扱う事業が政治的影響力のもと官僚の手で営まれていたし、また、その利権に群がる民間業者もたくさんいたのです。公的年金の資金は2000年度まで大蔵省の資金運用部に全額預託され、そのほとんどが公共投資として住宅金融公庫や日本道路公団や地方自治体に貸し付けられていました。こうしてできた道路や橋や飛行場などは隠れ損失をはらんでいると言われています。つまり、積立金は公団などへの融資に使われたのですが、できたハコモノは期待した利益を生んでいないのです。このような投融資は2001年から証券市場での運用に切り替えられつつあり2007年までに全額が年金資金運用基金に移される予定です。しかし、この年金資金運用基金も、これまでの累積損やグリーンピアの事業などが問題を抱えているのはご存知の通りです。

最後の問題は市場環境の変化です。日本の株式市場はTOPIXでみて1989年12月18日の2884から暴落を続け2003年4月14日には770まで下げ73%の下落をしました。金利水準も超低金利となり年金運用は非常に苦しい状態に陥りました。80年代までの運用環境はきわめて安易なものだったためにほとんどのポートフォリオがリスクに非常に弱い体質になっていたのです。たとえ株式が値下がりしてもしばらく我慢していればまたいつか回復した。株価が上がったらすぐに利喰って次の銘柄に移るのが投資だと考えられていたのです。リスクもコストもコントロールされていなかった。このなかで株式暴落と超低金利が起こったことで年金資産が大きく傷ついたことは否めません。これが上記の二つの問題をより深刻なものにしているのです。しかし、この点については最近、ずいぶん改善されてきています。特に企業年金は積立方式ですから積立不足が生じると母体企業がお金を出して埋め合わせなければならない。母体だって業績は苦しい。しかも、年金基金の規模は母体企業と比べても非常に大きなものになっている。不足分を拠出すると母体の業績はさらに悪化します。株価も下がる。資金コストも上がる。それだけに真剣な対応がされています。

バブルが崩壊するまでは経済成長と右肩上がりの証券市場に支えられて企業にとって年金運用などそれほど気にする必要もない分野だったのです。財閥、系列、株式持合いといった閉鎖的な環境のなかでグループ内の信託銀行か生保にまとまった金額を渡して「よろしく頼むよ」、「任せておいてください」といったお任せ運用が一般的でした。90年代に入り投資顧問が年金運用に参入を許可され、さらに資産配分などがんじがらめの規制が撤廃されずいぶん改善されました。企業年金が将来の債務を前提に自ら資産配分を決定し、それぞれの目的に合わせて最適な運用機関を系列を超えて採用するようになったのです。この点は年金運用が色々、問題視されるなかで明らかな改善であることを強調しておきたいと思います。

体制は整備されてきているものの企業年金も大きな問題を抱えています。2003年度こそ株価の回復でプラスになりましたが2000年から2002年までは三年連続のマイナス・パフォーマンスでした。その結果、積立不足の問題が発生しています。2003年3月時点で企業の退職給付(年金と退職金)債務総額は72.6兆円です。これに対して積立不足額が23.8兆円。厚生年金基金(資産額45.5兆円)のみを見ても95%の基金が積立不足でその額は10.84兆円です。このような苦しい状況を反映して「代行返上」に踏み切る基金が増えています。企業年金の中心である厚生年金基金は国に代わって公的年金の一部を企業年金に加えて運用をしていました。運用環境が良かったときはたくさん資金を持っていればより多くの収益があがったので企業にもメリットがあったのです。しかし、環境が悪くなってからは国に代わって資金を運用することが負担になりはじめ、この資金をお国に返したいという声が高まりました。代行資産は返上が認められる前には20兆円あり資産の4割を占めるほどでした。返上が解禁になって二年ですが予定を含め771件、ほぼ基金の半数がすでに実行したか、これからする予定です。代行返上をすると基金の規模は大幅に縮小するので大きな運用体制の見直しや制度の変更が求められます。それでも基金が存続できるのは良い方で解散に追い込まれる基金も多いのです。2003年度だけでも92基金が解散し、厚生年金基金は1357基金へと減少しました。ピークだった1996年に比べると7割の水準です。

そんななかで確定拠出型年金という新しい制度ができています。従来の確定給付型年金は将来、もらえる金額を会社が約束している制度ですが、この新型年金では会社は拠出する金額を約束してそれをどのように運用するかは加入者が決めるのです。ただ、現在の税制では非課税枠があまりに小さいのであまり大きな効果はでていません。また、果たして加入者が長期的視野で自分の年金を運用してゆけるのだろうかという点も大きな問題です。ただ、個人ごとにいくら支払い、現在の残高がどうなっているのかが明瞭にわかる点はいま、多くの人が最も求めていることです。目先はともかく将来的にはこちらが年金制度の主流になるかもしれません。

公的年金制度の改革につき現在、色々な案が出されています。私としては経済同友会が提唱している案が分かりやすくて良いと思っています。この案では老後の生活基礎の安定を目的とする新基礎年金を作りこの財源は消費税とします。これは国が面倒を見る部分です。その上に安心と充実を確保するための企業と個人の掛金からなる新拠出立年金を作ります。この部分は、民が運営し、個人ごとの口座で管理され、運用も自分で判断することになります。さらに企業が任意でプラス・アルファをつけることも可能とします。もちろん会社員、公務員による制度の違いも一元化します。重要なことは現在の年金問題はこのぐらいの大きな制度の改革をしなければ解決しない問題であるということです。

大切なことを最後にひと言。お国に任せておけば老後の面倒はフルに見てもらえるとは決して思わないことです。まずベースとして若いときから投資をして貯めた自分の資産があるべきです。その次ぎに企業年金があって最後に公的年金がある。つまり、公的年金としてもらえるのはお小遣い程度であると最初から割り切ること。これからの若い人は20代、30代のうちから自分の老後を考えた資産運用を考えていかねばなりません。給料が余ったら貯蓄するのではなく、まず、貯蓄をして残った部分で生活する。そして若いうちから正しい投資の知識を身につける。将来の自分をいまの自分が支えるためのDo-It-Yourself (DIY)年金の発想が20代から必要なのです。だから海外旅行をしてブランド品を買いあさっている場合じゃない。「若者よ、カネを貯めろ!」と声を大にして言いたいと思います。

参考
「安心で充実した老後生活を支える新しい年金体系の構築 −民が運営する“新拠出建年金制度”の導入−」 2004年2月、社団法人経済同友会
「年金大改革 −『先送り』はもう許されない」 2003年3月、西沢和彦、日本経済新聞社
「厚生年金基金における資産運用の状況 2002年年次報告書」 厚生年金基金連合会 運用調査部
「厚生年金基金の財政状況(2002年度決算結果)」 2004年04月08日 Web年金情報

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e-hanashi pv20040425
人口問題を考える


2000年時点で世界には60億人の人間がいました。現在は63億人です。国連の「世界人口予測(2002年改訂版)」によるとこれが2025年には78億人となり、2050年には89億人となります。その後、2100年ごろに世界人口は110億人に達してそこで安定するだろうと見られています。この人口増加でもっとも重要なポイントは二極化ということです。つまり、同予測の中位推定を見ても先進国の人口が2000年の11億8800万人から2050年には11億5500万人と減少するのに比べて、発展途上国の人口は2000年の48億6700万人が77億5400万人へと増加するのです。先進国のうち少なくとも33カ国の人口は減少すると言われていますし、これらの国は急速な高齢化が進行します。

そのなかで日本の少子・高齢化・人口減少は世界のなかでも際立っています。国立社会保障・人口問題研究所によると日本の人口は2006年に1億2770万人でピークをつけ、2025年には1億2110万人、2050年には1億50万人、そして2100年には6410万人とピークから半減します。これは中位推定でその前提はかなり楽観的だと言われています。そこでもう少し現実的な低位推計を見るとピークは今年から来年にかけて1億2750万人、2025年が1億1770万人、2050年が9200万人、そして2100年が4640万人となりピーク比で三分の一近くなってしまいます。このまま行くと日本人がいなくなってしまう!大変なことです。

日本の人口問題には二つの側面があります。ひとつはベビーブーマー・団塊の世代が歳をとってゆくなか医療の発達で長寿になってきていること、それからもうひとつは一人の女性が産む子供の数が大幅に減ってきているからです。この二つが人口問題のカナメです。これらの二つのトレンドがあってそのなかで人口が減少してゆくのです。

前者は高齢化の問題です。65歳以上の人口に占める比率を見ると明らかです。1970年に初めてこの比率が7%を超えましたが1994年にはそれが14%になりました。現在は17%ですが21世紀も中ごろになると日本の人口の三人に一人は65歳以上ということになります。

後者の少子化の問題も深刻です。一人の女性が一生の間に生む子供の数の平均を示す合計特殊出生率は1960年代の末に人口を維持してゆくために必要な人口置換比率の2.1を割って以来、低下を続け、現在は1.32です。先ほど触れた中位推計ではこれが1.31まで下がりますが2010年ごろから上昇に転じて21世紀中ごろには1.39まで回復するとしています。ちなみに低位推計では低下を続け1.10程度で安定するとしている訳です。

出生率の低下はジェンダー革命とも呼ぶべき女性意識の変化によるものだろうと思います。女性の意識が変化して、まず、プロフェショナルを目指す女性が増えました。そのため高等教育を受け、プロとしての資格をとり、労働市場に参入し、キャリアアップのために仕事をがんばり…、結局、子供を持つことのプライオリティーが後回しになってきたというわけです。言い換えれば女性にとって子供を持つコスト(機会コスト)が高くなったともいえます。

人口が減少し、高齢化する国は経済的な問題を抱えることになります。つまり、生産活動に従事する人が減るので経済成長率が低下します。同時に消費者も減少するので需要が減退します。税収入も減る反面、社会保障費が増加して政府の財政が悪化します。高齢者は一般に過去に蓄積した貯蓄を取り崩して生活するので貯蓄率が低下し、その結果、投資も減ってしまいます。経済規模が縮小してゆくなかで不動産や株式などの資産デフレが進みます。

たしかに人口が減少することで道路の渋滞が減るとか、通勤が楽になる、大きな家に住める、学校教育も目が行き届いた丁寧なものにすることができる、つまり、生活の質的な向上が図れるという議論もあります。そのような側面はたしかにあるのですが、乗客が減れば電鉄会社は電車の本数を減少せざるを得なくなるでしょうし、住宅に対するニーズが減れば地価が低迷して資産デフレが続くことになります。やはり、経済は拡大していた方が良いし、その拡大の前提となるのが人口の増加なのです。

一般的に若い人の方が最新の技術を習得しているので生産性が高いといえます。さらに若い人が多く人口が増加している国の方が経済のパイが大きくなっているので前向きの投資が起こり経済活動も活発になります。また、若い人の多い国ほどより過去のしがらみにとらわれない制度が作り易く、先進的な政策をとることが可能です。どうしても高齢者の多い国では選挙で旧体質の政治家が当選することが多いでしょうし、また保守的な政策が好まれることになります。したがって、これから数十年の単位で見ると世界経済のリーダーシップは現在の先進国から人口増加の大きい発展途上国へとシフトしてゆくことになるだろうと思います。

ただ、発展途上国といってもかなり幅があり、やはり最貧国が世界経済のエンジンになるのは無理な話です。ある程度、工業化がすでに進み始めていてこれからの何十年かで飛躍する国が主役になるだろうと思います。最近、アメリカの証券会社、ゴールドマン・サックス社が調査レポートでブラジル、ロシア、インド、中国がこれからの世界経済の牽引車になると述べています。この四カ国は頭文字をとって「BRICs」と呼ばれています。このレポートによるとBRICsのドル建てGDP合計は、現在、G6諸国の15%に過ぎませんが、2025年には半分以上に、そして2040年にはG6諸国合計を追い抜くとしています。これは人口構成、資本蓄積、生産性向上などの前提をおいて試算したものですが、2040年時点の世界の経済規模上位六カ国はBRICsとアメリカ、日本になると予測しています。現在の先進諸国が高齢化と人口減少で活力を失ってゆく一方、これを相殺する形でBRICsが新しい需要と消費を生み出し世界経済のエンジン役を担ってゆくと予測しています。

それではどうすればよいのか?先進国には発展途上国にない貴重な資源があります。おカネです。先進国の多くで退職に備えての貯蓄や年金の積立金、その他の金融資産が巨額に膨れ上がっています。先進国経済が相対的に停滞してゆくとこれらの巨額の資金を投資する魅力的な対象が自国内には見つからなくなります。そこで労働人口が増加しているのに生産性が低い国へ投資する意味がでてきます。これらの国は資金の流入を得て生産性を向上して世界経済の停滞を食い止めることができるのです。その成果は投資のリターンとして先進国の投資家のもとに戻ってきます。つまり、これから伸び悩む先進国とこれから成長する発展途上国の間には補完関係があるのです。これらの国の企業が数十年単位で見て高成長して行くことで結局、それが投資のリターンとして日本に戻ってくることになります。

特に日本には膨大な個人金融資産がありますし、公的および企業年金は巨額の資産を抱えています。これらの資金は現在、その大半が財投資金として国内の公共投資に向けられています。その公共投資の使い方が問題になっているのはご存知のとおりです。東京や大阪などの大都市に人口が過度に集積している一方で地方は低い集積になっており二極化している。その人口の少ないところに巨額の公共投資がばらまかれている。これをもっと経済合理性のある、本当に付加価値を生むような投資に変えて行くことが必要です。

発展途上国に加えて国内への投資では日本の富を最大限に活用して日本の少子化を食い止めるためのあらゆる手段を講じることが急務です。つまり、女性にとっての出産と子育ての負担=コストが最小化できるような設備と制度を整備することが必要です。この分野こそ最大の公共投資であるべきです。

それから世界のトップ・ブレインが喜んで日本にきて大成功を収めることができるような国としての対策にカネを使うことも必要だと思います。日本がこのように成長過程にある国々のブレインを取り込む形で成長を可能にしてゆけば日本がアジアのシリコン・バレーになることもできるわけです。これによって日本の人口減少や高齢化も食い止めることができます。いずれにしても現在、日本の富は政治的な要因で投資が決定されています。これを経済合理性に基づいた投資に変えてゆくことがもっとも大切なことではないかと思います。

参考
World Population Prospects, The 2002 Revision Highlights, 26 February 2003, United Nations Population Division http://www.un.org/popin/data.html
「日本の将来推計人口(平成14年1月推計)」国立社会保障・人口問題研究所 http://www.jpss.go.jp/Japanese/newest02/newest02.html
「人口減少社会の到来」http://gioss.or.jp/policy/d03-11-1.htm
「人口減少社会とどう向き合うか」額賀信
http://www.crinet.co.jp/contents/president/thesis/20030901.html
「人口減少の衝撃と日本経済」石水喜夫 http://www.rengo-soken.or.jp/dio/no164/houkoku1.htm
Seven Revolutions, CSIS  http://www.7revs.org/Population/pop3.htm
World in the Balance, Paul Hewitt http://www.pbs.org/wgbh/nova/worldbalance/voices.html
Dreaming With BRICs: The Path to 2050, Dominic Wilson & Roopa Purushothaman, 1st October 2003
http://www.gs.com/insight/research/reports/99.pdf

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e-hanashi pv20040415
四国八十八札所お遍路の旅

e-hanashi pv20030911で「東海道完歩」という文章を書きました。そのなかで四国八十八札所お遍路の旅、1300KMにチャレンジすることを述べました。むろんバーチャルでの話です。毎日、歩いた歩数を「健康ウォーキング(http://gnl.cplaza.ne.jp/walking/index.html)」というホームページに入力するとどこまで歩いたかが分かるのです。スタートは2003年9月9日。それからほぼ半年、2004年3月6日、ついに無事に完歩することができました。

阿波の国 2003年10月1日完歩 199KM
土佐の国 2003年12月8日完歩 477KM
伊予の国 2004年 2月5日完歩 411KM
讃岐の国 2004年 3月6日完歩 193KM

平均するとほぼ一日当たり1万歩から1万2000歩ぐらい歩いたでしょうか。距離にして7〜8KMぐらいです。一緒に歩いた会社の仲間もほぼ同時に到着。先日、お互いの健闘を讃えて飲み会をしました。そのとき完歩した三名に下の写真のような優勝カップを贈呈。もちろんひとつは自分の分です。私はこれまでひとつも優勝カップというものを持っていなかったのでうれしかった!この間、私の体重も随分、減少しました。スタート当時の体重は70キロぐらいでした。それが現在は63キロ。おかげで背広のズボンのウエストを7CMずつ縮めることができました。

現在は中山道に挑戦しています。いつかバーチャルで良いのでアメリカ大陸横断とかシルクロード全行程なんていうのをやってみたいなあと思っています。 



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e-hanashi pv20040413
人生いろいろ

4月10日(土曜日)、小学校のクラス会がありました。私の小学校時代は1953年から1959年まで。「もはや戦後ではない」と経済白書が宣言したのが1956年。そして日本は60年代に「奇跡の成長」を遂げるわけですが、私の小学校時代はその助走段階の1950年代だったのです。

卒業以来、45年ぶりに会う人もいて総勢50人のクラスのうち23人が集合。目黒の中華料理で正午からスタート、そのあと白金自然教育園に行き屋外でだべって、それから都ホテルのテラスでさらに一杯。仕上げは目黒駅の近くの居酒屋でした。終了は午後8時。8時間の長丁場のクラス会でした。最後はすっかり昔の悪ガキ仲間に戻って楽しいことこの上ありませんでした。

出席者の近況報告を聞いて二つのことを感じました。ひとつは色々な事情はあるにしてもこれまで長年働いていた職場を最近、去った人が多いこと。まあ、これは年齢の問題と「時節柄」という要因の相乗効果なのでしょう。もうひとつはボランティア活動をしている人が多いことでした。母上をアルツハイマーで亡くされた人が老人ホームでお年よりの話し相手になっているとか、日本の体操のレベルが下がっているので体操選手育成のための活動をしている人とか、あるいは地元の公園で子供たちに昔の遊びを教えている人とか。みなあまり無理のない範囲で社会貢献をしていることを知りうれしく思いました。

それにしてもみんなと話しているとタイムスリップするように当時の雰囲気が思い出されてきます。クラス全員が家族も含めてひとつの集団を形成していた。私が近況報告をしたらある友人が近づいてきて「お前、親父さんに似てきたなあ」と言っていました。私の父は会社人間でそれ程、地域にとけ込んではいなかったのだけれど、でもやっぱり友人たちは家にしょっちゅうきたりして親父を知っていたのですね。

いまは会社の社長をしている友人は父上がいませんでした。当時の我々の目から見ても母上が大変な苦労をされて子育てをしているのを感じたものです。その母上は現在、90歳。このクラス会にでるという話をしたら「じゃあ、岡本君にも会えるのね」と言ってくださったとか。うれしい話でした。その彼が「友人のお母さんが野球のユニフォームを縫ってくれたのが本当にうれしかった」言っていました。彼はユニフォームを持っていなかったので野球をするときも引け目があったのでしょう。でも、そんな善意の行動がごく普通に行われている時代でした。それをする方も自然にしていたし、受ける方も感謝しつつも素直にそれを喜んで受け入れていた。

ある友達のお父さんは電気関係が専門でした。私とその友人が夏休みの宿題で鉱石ラジオを作るとき色々なことを教えてもらえました。イヤホンを通して小さな音でラジオが鳴ったときの喜びは忘れられません。そして夏休みの作品展に誇らしく出品したのですがそのラジオがすぐに盗まれてしまったのです。やっぱり貧しかったのでしょう。我々の作った鉱石ラジオですら必要としていた人がいたのかもしれない。そんなことも思い出。そう言えば彼の家のそばにはいつも「ポンせんべい」というお米のせんべいを焼きながら売っているおじさんがいたっけ。おいしかったなあ。

その友人と乾電池を組み立てるキットを買いにいったときのことです。家に戻ると私の飼っていた文鳥の「ピーコ」が練炭のコタツに入って中毒になり死んでしまっていました。友人と一緒だったのですがワンワン泣いたのを覚えています。あんなに悲しさがすなおに涙になったことはなかった。どうも私はそれから死に直面して泣くというすなおさが封印されてしまったようです。

私の叔父が岩石や鉱物を研究していました。それで私も興味を持ち友人と岩石・鉱物研究会という会を作りました。「GK」の二文字を粘土に彫りそのなかにハンダを流し込んでバッジを作ったりしました。ある日、その友人と採掘にでかけたらそこで土器や石器を発見。当時は町中にも貝塚などがあったのでしょうか。学校に持っていったら先生もびっくり。それがきっかけでその友人はいまをときめく考古学の有名な教授です。

みんなお互いがお互いの家族まで知っていてしょっちゅう家にも行ったり来たりしていた。子供たちもみんな兄弟姉妹みたいに群れて行動していた。そしてごく自然にお互いに助け合うシステムができていた。子供たちはみんな地域の大切な子供だった。いまはなくなってしまった懐かしいあの時代がよみがえってくるようでした。

まあ、人生いろいろですね。何と言っても45年間。その間にあったいろいろなうれしいことや悲しいことがあった筈です。それが一瞬に凝縮されてしまい、一挙に45年前の子供時代に戻ってしまうところが人間の脳のすごいところですね。「あの時」と「いま」という二つの時点がさっとつながってしまう。でも現在の自分にくっついているたくさんの糸をずっとたどって行くとたしかにあの時代まで遡って行けるような気もします。次回のクラス会は二年後にしようということで散会となりました。

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e-hanashi pv20040330
土地神話の呪縛

日本の個人金融資産は昨年末で1410兆円あります。この規模は総額でも一人当たりでもアメリカに次いで世界第二位です。2001年末の国際比較を見るとアメリカは総額32.4兆ドル(4257兆円)、一人当たり1494万円、第三位のイギリスは2.8兆ポンド(545兆円)、一人当たり909万円。これに対して同時点の日本は総額1461兆円、一人当たり1148万円でした。

規模が大きいということに加えて日本の個人金融資産のもうひとつの特徴はその資産の過半が現金や預金などの安全資産になっているということです。現金や預金が56%。リスク資産である株式は5%(出資金を含めて7%)、債券は3%、投資信託に至っては2%のみです(2003年末)。これがアメリカでは株式・出資金が34%、債券が10%、投資信託が13%と言った具合です。イギリスでもそれぞれ14%、2%、5%です(2001年末)。

なぜ、こんなに日本人は安全指向が強いのでしょうか。どうもそのカギは不動産にあるのではないかと思うようになりました。2000年末のデータを見ると日本は金融資産が1415兆円ですが不動産が8割近くを占める実物資産が1247兆円あります。アメリカでは金融資産が33.7兆ドルに対し実物資産は15.1兆ドルです。つまり、日本の家計が保有する全財産のうち実物資産は47%、金融資産は53%とほぼ半々の構成比なのです。アメリカでは実物資産が全財産に占める比率は31%です。

言うまでもなく不動産は流動性が低いという特徴があります。特に日本の不動産の流動性は低い。アメリカの1999年の持ち家数は6880万戸あるのに対し同年の中古住宅販売数は520万戸と7.6%ありました。一方、日本は2647万戸(1998年)の持ち家数に対し中古住宅販売は15万戸のみで0.6%以下です。言い換えれば日本の住宅流動性はアメリカの十分の一以下なのです。不動産は何かあってこれを手放さねばならなくなってもなかなか売れない。まして、自分で住んでいる住宅ともなれば当然です。つまり、日本の家計が保有する財産の半分は流動性の低い不動産など実物資産になっている。そこで自分で意識しようが、しまいがバランスをとる形で金融資産は一番流動性の高い現金や預金を選好するようになっているのではないでしょうか。

面白いのは世代別の金融資産の内訳を見ると高齢者ほど株式などのリスク資産の保有が多いのです。金融広報中央委員会のデータでは30歳代の人が保有する株式・債券・投信は金融資産の6.4%のみです。一方で70歳代の人はこの比率が12.7%と倍です。常識的には若いうちは株で少々やられてもまだ取り返せる時間が十分あるので株式比率が高くても良い、しかし、年取ったらだんだん株の比率を下げてリスクを減少してゆかねばならないといわれています。日本では結果としてこの常識と反対のことが起こっているのです。

多分、これも若いうちは子供の教育費に加えて住宅取得や増改築などの支出が負担になりリスクの高い株式投資をする余裕がなく預貯金が中心になる。それが40歳代を過ぎると住宅関連費や教育費が減少し老後の生活資金が貯蓄目的の中心になるので株式や投信を含めた本格的な投資が始まるのではないかと思います。本当は若いうちから株式を長期に保有してしっかり財産づくりをしておき、年取ったらだんだんリスク資産を減らしてゆかなければならないのです。まして、年金がどうなるか分からないご時世、いまの自分が将来の自分の面倒を見なければならない時代です。それが若いうちには教育費と住宅関連の支出で長期投資をする余裕がなくなってしまっている。

このように考えてくると日本の不動産はなぜこんなに高いのだろうという問題に突き当たります。戦前はそれほどみんな持ち家にこだわらなかったという話も聞きます。戦後、人口も経済規模も生活水準もすべてが拡大・向上した。たった一つ、土地だけは増えなかった。その結果、不動産価格の上昇が始まり不動産を持つことが財産形成の道となった。土地神話の始まりです。そして不動産価格が実体価値から乖離し将来の値上がりを織り込んだ価格形成になっていった。みんなが自分の家を持つことを人生のひとつの目標だと考えそれをすることで財産の形成も可能だった。その結果、土地バブルが発生したのです。


サラリーマンも終身雇用と年功序列に守られてひとつの会社でじっと耐えていれば社宅、結婚、出産、教育、住宅ローン、退職、年金、さらに退職後はOB会を通じてのお楽しみ会まですべてのライフ・ステージにおいて生活が成り立つような制度ができていた。マイホームを持とうとすれば生活は苦しいけれど、いずれ資産価値は上昇したし、会社に従順に帰属していればそれなりに安定した生活が老後まで守られていたので金融的な自由を得るための自助努力もそんなに必要なかった。いま、この図式が崩れてしまったのは言うまでもありません。

これから人口は減少に向かいます。約100年前の日本の人口は4300万人。1950年には8320万人、2000年には1億2690万人でした。それが楽観的過ぎると言われる中位推計でも2050年には1億50万人、2100年には6400万人になります。もっと現実的な低位推計では2050年に6370万人、2100年には5090万人です。そしてこの低位推計ですら出生率が現在より回復してその後、横ばいになるとしていて、楽観的すぎるという声が多いのです。一人っ子の男女が結婚するカップルの6割を占めるという話も聞いたことがありますが、このカップルには両方の親から二軒の家が来る可能性があるのです。


やはり、これから住宅の価格は下がってゆくでしょう。最終的には本来の住宅の使用価値に基づいた合理的な価格になってゆくだろうと思います。J-REIT(不動産投信)の普及で不動産価格を値上がり期待だけで評価するのではなくキャッシュフローで見直す動きができています。これも不動産価格が金利や収益性に基づいた体系に移行してゆくのを促進するでしょう。もちろんもっと便利なところに質の高い家があまり大きな負担がなくても持てるというメリットがでてきます。いずれにしても値上がり期待のマイホームの時代は終わったと考えるべきでしょう。

これが長期的に見れば個人の金融資産の構成を変えてゆく可能性はあると思います。つまり、極端に流動性の低い住宅に対してバランスをとるために保有されていた現預金が、財産全体に占める不動産の比率が下がるにつれて徐々に中ぐらいのリスクの株式など有価証券へシフトしてゆくことになるのではないでしょうか。さらにフローでの住宅関連支出が減少することで若いうちからハイリスク証券で長期的な投資をすることも可能となります。更に通勤時間が短縮して時間的にも余裕ができる。そこで自分自身への投資が現在よりもしやすくなります。自分の能力開発の結果として収入アップという好サイクルも生じてくるでしょう。

いずれにしても我々日本人の土地神話の呪縛が解けてくると新しい楽しい世界が見えてくるように思えます。みなさんはどう思いますか?(ちなみにわが妻は「それでもやっぱり持ち家に安心して住みたい」と言っています・・・。)

参考
日本銀行 資金循環統計 2004年3月15日発表http://www.boj.or.jp/stat/sj/sj.htm
教えて!日銀「わかりやすい経済の見方」国際比較:個人金融資産1400兆円http://www.boj.or.jp/wakaru/keiki/whikaku.htm
資産負債残高を中心にみたわが国家計(小野沢康晴)http://www.nochuri.co.jp/report/pdf/f0206fo1.pdf
家計の資産運用における資産配分(野村アセットマネジメント竹崎竜二、ファンドマネジメント2004年春季号、野村アセット投信研究所)
金融広報中央委員会 http://www.saveinfo.or.jp/

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e-hanashi pv20040309
命の重さ

最近、ニュースを見ていると気が重くなります。鳥インフルエンザの感染を阻止するために何十万羽というニワトリが殺されているからです。これを実行している人たちも仕事とは言え気の毒です。さぞや嫌な思いでやっていることでしょう。さらに昨日は養鶏所経営者の夫妻が自殺すると言う事件までありました。一代かけて築き上げた養鶏所の経営が成り立たなくなり、また、報告が遅れたことに対するマスコミや世間の批判に絶えられなかったのでしょう。

たしかにここでウィルスが広まることを止めなければニワトリの間にさらに病気が広がる恐れがあります。だからたくさんのニワトリが犠牲になることはニワトリのためだとも言えなくはありません。しかし、実際はニワトリが病気になると養鶏所の経営上こまる、人間に鳥インフルエンザがうつると困るという人間の事情が中心ではないでしょうか。

さらにこれがカラスへ感染してカラスにも禍が及びつつあるようです。同様のケースではたくさんのBSEの疑いのある牛たちがヨーロッパなどで殺されました。日本でもヘルペスにかかった鯉がたくさん処分されたのは記憶に新しいところです。さらに気まぐれなペット・ブームの裏で日本では一年間に12万4000匹の犬と27万匹の猫が処分されている(2001年)とも聞きます。これも人間の事情で動物が犠牲になっているのです。「処分」と言っても要するに大量虐殺。人間による他の種に対するホロコーストじゃないですか。

動物は知性が発達していないから自分の死ということの意味が分からない。だから殺してもそれほど問題はないのだという話をある外国の友人から聞いてびっくりしたことがあります。全然、分かっていない。命の重さは人間でも動物でも同じです。みんな同じ大きな命の一部をもらってこの世で生きている。確かに動物は人間ほど個体性が確立していません。だからその分、種としての命を生きている比重が大きいのです。水族館でたくさんの小さな魚たちがまるでひとつの生き物のように泳いでいるのを見たことがあるでしょう。あの魚のかたまりは小さな魚たちを細胞としたひとつの生命体なのです。何十万羽ものニワトリの命を奪うのは個々のニワトリの命はもちろん、ニワトリという種としての集合体の命を奪っていることなのです。

もちろん現代社会においてこの深刻な鳥インフルエンザの状況を放置して置けないのは分かります。せめて、大きな生命の一部をもらってこの世に生れてきたニワトリやその他の動物たちがこの世での役割を終えて、また、もとの大きな生命に安らかに戻れるように祈りたいものです。そして人間は彼らが我々に発しているメッセージを良く考えてみるべきでしょう。多分、彼らがこの世に生まれてくるときに課された役割は「人間に命の重さを気づかせること」だったのではないでしょうか。我々、人間がすべての生きとし生けるものの生命の尊さに気づくことこそ犠牲になっている動物たちへの一番の供養だろうと思います。


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e-hanashi pv20040222
ホンネとタテマエ

日本にはホンネとタテマエがあると言われます。私は外資系の企業で仕事をしているので良くそれを実感します。例えば、東京オフィスにいる仲間同士では色々なことを正直に話しても、海外拠点の人達にはちょっと話し方を変えることがよくあります。あまり、ストレートに話さずに「あいまいさ」をもって話す。どうも、日本人のDNAにはそのような要素が乗っているのではないかと思うのです。多分、外国人から見ると日本人はどうして本当のことをもっとストレートに話さないのかと思っていることでしょう。これは決して他意があってそうしているのではなく、日本語には外国にはあまりない微妙な距離感を反映した表現法があるということです。これは外国人にも日本人とつきあう上で是非、知っておいてもらいたいことです。また、我々、日本人が外国の人と話すとき誤解を招かないように注意しておくべき点でもあります。

何年か前に話題になった本に大野晋さんの「日本語練習帳」という本があります。非常に面白い本でした。その中に日本語の社会で最も古くからある根源的な要素は、人々が近いか遠いかを軸にして人間関係を考える点にあることが指摘されています。さらにそのもともとあった距離感に加えて古墳時代以降に漢字文化が中国から輸入され、社会の階層化、家父長制的社会制度が成熟しタテの距離関係が加えられます。原始社会の人々の心性では、「ウチ」は安心な場所、親愛できる、なれなれしくできる、時には侮蔑にまで発展していってもさしつかえないところです。「ソト」は恐ろしい場所、恐怖の場所、妖怪や神がいるところ。一方、ソトで生じることは自分ではコントロールできないことであり、自分が立ち入るには危険を冒さねばならないところでした。だから、「ソトの人」、「ソトのこと」にはあまり関与せず、相手を傷つけないようにして争いを起さないようにしたのです。

その背景は多分、日本という四季がはっきりした温暖な恵まれた風土に関係あるのではないかと考えます。つまり、昔から日本人にとっては自然の恵みを十分に受けた土地をしっかり守ってゆくことこそ生存の条件だったのでしょう。その点、砂漠とか荒野など極端に熱かったり寒かったりする土地の人々とは考え方が異なったのではないかと思います。彼らにとっては攻めて勝ち取ってゆくことこそ生存確率を高める方法だったのではないでしょうか。

関西では今でも女性や子供が一人称として「ウチ」を使います。ウチは内であり、家(うち)であり、自分なのです。「ウチの会社では」という言い方をします。相手をウチの人だと思うと急に親しくなり、特別の便宜をはかり、相手をソト者と思うとはっきり別扱いをします。「でる杭は打たれる」ということわざはウチから出てソトの世界にかかわる危険さを表したものでしょう。日本人は「世間をお騒がせすること」を非常に良くないことだとします。これもウチの社会で調和を保って生きて行くための処世術だったのです。こうやって我々は小さい頃からソトとウチの区別を躾られてゆきます。日本人が一般にリスクを好まないのもこの辺に原因があるのかもしれません。

これが日本語独特の複雑な敬語の体系に現れます。敬語はあくまでソトの者をいかに扱うかという技術です。ソトのものにあまり関与しないということは、恐ろしいことにはできるだけ係わりをもたないということです。つまり、日本語の敬語は根本的に外界に対する恐怖から始まった、そしてその後、中国から文化や制度が移入されるにしたがって上下関係にまで発展したということになります。こうして三次元の人間関係が敬語に表されるようになります。

外国語でもある程度、似たことはあります。例えばフランス語のtuとvous、ドイツ語のduとSieなど相手との関係の近さにより用法が異なります。上下関係についても子が父を呼ぶときにはファーストネームでは呼ばずfatherとかdadと言います。日本語ではそれが比較にならないぐらい複雑になっていると考えれば分かりやすいかと思います。つまり、相手を自分の位置から見てどの辺りに位置付けるかによって相手にどれくらい本当の自分をさらけ出すかが決まってくるのです。

ここからホンネとタテマエという問題がでてきます。ホンネというのは本当の音色です。人の心の中にある真実の考えや個人的な思いです。日本人はしばしば「ソト」の人に対してそれを表現することを避けようとします。それを露出することで相手との関係を損ねたり、相手に嫌われたり、信頼を失ったりすることを恐れるのです。相手をどの程度、「ウチ」の人と感じるかによって相手にどの程度まで「ホンネ」で接するかが決まってきます。一方のタテマエは公的な「ソト」に向けての立場や態度を表すものです。具体的には丁寧さや敬語などによって表現されます。時には相手の「顔」をつぶさないためにウソに近いことを言うこともあります。本当は合意していなくても表現をあいまいにし相手に反対しているという印象を与えないようにします。これはすべて「ソト」の人を怒らせたり、嫌な気分を味あわせたりせず、悪い印象をもたれないようにするために「気を使って」いるのです。「ウチに対しては『世間を騒がせない』こと」、「ソトに対してはできるだけ『知らん顔をする』こと」というのが日本人の伝統的かつ典型的な態度だったように思われます。

この文章を書くために外国のホームページを色々見ていたらホンネとタテマエを絵で説明しているページがありました。以下はそれを私が作り直したものです。なかなかうまい説明です。左側が日本の社会、右側がアメリカの社会です。外側の青い輪が相手との距離感に基づいた丁寧さ、敬語の使い方を示します。言い換えればタテマエです。真中のグリーンの丸は本当に思っていることや感じていること、つまりホンネです。これから分かることは日本人の言葉にはこの外側の輪から発せられるタテマエによるものが非常に多いということです。相手がどう思うか、どう感じるかということに日本人は非常に敏感です。アメリカ人はホンネ部分が大きい上にそれをガードするタテマエ部分が薄いのです。だから何でもストレートに話をしてくれるのです。



こう言ったことはどっちが良いか悪いかということではないのだろうと思います。本当のグローバル化というものはこのようなそれぞれの国民性の違いを容認してそれを超えた信頼やお互いの理解が築き上げることが必要なのです。つまり、グローバル化というのは単一の基準を押し付けることにあるのではなく、「違いを容認」しお互いを理解することから始まるのだということです。そのためにも日本人自らがホンネのタテマエなどの日本独自の特殊性を理解しておく必要があるように思います。

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e-hanashi pv20040211
ナンバー・ワンとオンリー・ワン

最近、よく「ナンバー・ワンよりオンリー・ワン」ということを聞きます。なんでもSMAPの「世界でひとつの花」という歌の歌詞の一部だとか。インターネットなんか見てるとこのような歌がはやるというのは「この国もまだ捨てたものではない」などと好意的な反響が多いようです。

たしかにタンポポに「バラになれ」と言ってみても無理な相談です。タンポポはタンポポらしく、バラはバラらしく美しく咲けばいい。所詮、自分は自分以上でも以下でもない。だから自分らしく個性を発揮して生きてゆけばいいんだ。私はこの趣旨にはとても賛成です。

日本は戦後、とりわけオイル・ショックを克服した70年代後半から80年代、規格大量生産方式を確立して工業製品の生産で大きく成長しました。その結果、モノの面では世界に並ぶもののないほど豊かな国になりました。でも、日本はどうやら人間まで規格に合わせて大量生産する方式を取ってしまったようです。オイル・ショック後に生まれた若者たちがベルトコンベアーに乗って、いま社会の主役になりつつあります。そして突然、彼らは気がつきだしているのではないでしょうか。程度の差こそあれまわり中、みんな自分と同じような奴ばっかりだって。この中でナンバー・ワンになるのはむずかしい。みんな同じなのだから。小学校の徒競走のように全員が一等賞でゴールインするより仕方ない。

でも良く考えると彼らだって本来、豊かな個性を持っていたはずです。それが教育の過程で抑圧されて心の奥の方に閉じ込められてしまったのです。これを開放してあげよう。自分らしさを再発見して自分に一番合った自分になろうというのがオンリー・ワンの目指すところであるなら素晴らしいことです。

ただ、「ナンバー・ワン『より』オンリー・ワン」という表現には何か抵抗を感じます。なんだか「負け犬の遠吠え」みたいな感じがします。所詮、「ナンバー・ワンになんかなれっこないんだからオンリー・ワンでいいのだ」というように聞こえるのです。世の中に閉塞感が漂う中でよけいにオンリー・ワンを自分の逃げ場のように考えてしまいがちなのかも知れません。

人間、生きている以上、競争は不可避です。どんな自分だって生き延びて行かねばならない。それがバイタリティーというものです。オンリー・ワンになるのは良いことです。ただ、私としては自分らしい自分が競争に勝ち抜いてナンバー・ワンになろうという気概がなければしょうがないということを言いたいのです。オンリー・ワンであることとナンバー・ワンであることは二者択一のものではない。オンリー・ワンでナンバー・ワンになるというのが一番良いのです。オンリー・ワンになるのはナンバー・ワンになるためのステップだと言っても良いでしょう。結果としてはナンバー・テンで終わってもやっぱりナンバー・ワンを目指して欲しいものだと思います。

アメリカの社会を見ていてつくづく思うのは個人が子供の頃から自分のスキルのポートフォリオを作り上げる努力をしているということです。自分がどういう自分になりたいかを考え、それにあわせて授業を選び、クラスの委員などをして、学位や資格を取り、プロジェクトに参加し、ボランティア活動などもする。そして自分というオンリー・ワンの商品価値を高めて自分の夢の実現をしようとする。

レジメが自分という商品の仕様書です。みんなレジメを少しでも良く見せるための努力に全力を傾注する。もちろん親に言われてそれをしているのではなく、子供が小さいときから自分で考えてやっている。アメリカの世界では他の人と差別化すること、つまりオンリー・ワン化することがナンバー・ワンへの道なのです。功利的と言えばそうかも知れませんが私にはこの方がはるかに健全なように思えます。このようなバイタリティーが底辺にあってアメリカの今の活力が生み出されているのではないでしょうか。

だから「オンリー・ワンでいいんだ」で終わってしまうと競争をあきらめた負け犬になるだけ。いまのSMAPの歌に対する一般的な反応がどうも負け犬パターン、競争回避のぬるま湯志向になっていることが気になります。オンリー・ワンでしかもナンバー・ワンになることを若い人たちにチャレンジしてもらいたいものだと思います。

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e-hanashi pv20040201
ふたたびリーダーシップとビジョン

1月11日に「リーダーシップとビジョン」というe-hanashiを書いたところたくさんのご意見をいただきました。そこでそれらをヒントにリーダーシップとビジョンについてもう少し考えて見ましたのでご紹介します。まず、ビジョン・リーダーとしては西遊記の玄奘三蔵が典型的な例であるとの指摘を学生時代からの友人、林望さんからいただきました。その通り。まさにその通りです。彼のくれたメールの文章を一部、彼の了解を得て以下に紹介します。

『そういうのは私はいつも三蔵法師と孫悟空にたとえます。三蔵法師ってのは、彼自身は何もしない、何もできない、でくの坊のように馬に座っているだけです。しかし、その周囲に孫悟空を始めとする非常に有能な家臣を従えて、かれらを「何もせずに」ぴたりと押えている。こういうのが東洋的な君子の理想像です。』

もちろん三蔵法師のビジョンは「インドに仏教の経典をとりに行く」ということです。そしてその経典をもって中国に仏教を広める、人々を救済するという高邁な動機が絶対に揺るがぬ基盤としてあります。力も弱く一人では何もできなくても絶対に妥協しないビジョンを持っています。ビジョンが人格化したようなものです。またアクションリーダーたちがめっぽう強い。と、同時に弱さも持っている。彼らは本当は三蔵法師という人間のなかの弱さの象徴なのだと言われています。人間だれしも持っている三毒、貧瞋痴をそれぞれ猪八戒、孫悟空、沙悟浄が表している。それらがお互いに補い合いながらビジョンを達成するのです。もし、三蔵法師がいないで孫悟空、沙悟浄、猪八戒だけだったらいくら強くてもビジョンは達成できなかったでしょう。これがビジョン・リーダー、存在のリーダーシップの典型的な例です。

もうひとつ、似たような例は「オズの魔法使い」のドロシーです。彼女がビジョン・リーダーでライオン、ブリキの木こり、カカシがアクション・リーダーです。西遊記モデルと同じでみな、欠点を持っています。しかし、力を合わせ、チームワークでドロシーを助けて目的を達成します。ここで西遊記と一番違うのがビジョンです。ドロシーの目的は「家に帰りたい」ということです。その目的にはあまり社会性がない。あくまで個人的な希望です。それではなぜ、アクション・リーダーたちが集まってドロシーを助け目標を達成したのか。私は彼らはこれをひとつのキャリア・デベロップメントと考えていたのではないかと思います。事実、このプロジェクトを達成して臆病ライオンは勇気、カカシは頭脳、ブリキの木こりは心を自分のなかに発見しています。彼らはこの仕事を通して成長したのです。でも彼らのドロシーへのコミットメントに何か少なさを感じるのは多分、ビジョンが個人的過ぎるからでしょう。

それでは水戸黄門はどうでしょうか。彼にも助さん、格さんというアクション・リーダーがいます。ただ、二人とも強いけれどあまり差別化はされていない。一人より二人の方が都合が良いから黄門さまが二人連れて旅をしているという感じです。それから黄門さまのビジョンももうひとつはっきりしない。どうも江戸幕府による体制を強化するために諸国を漫遊して地方の生きた情報を将軍に送っていたらしい。しかし、それと各地で悪を凝らしめるのとはちょっとディスコネクトしている感じです。それから黄門さまが最後に出すあの印籠。あれは権力の象徴ですが、あの葵のご紋の印籠を取り出すと悪党が恐れ入るのを見て「幕府はこれで安泰だ」と確認しているようなところもあります。つまり葵のご紋の権威を確認するのが目的で悪を懲らしめるのが手段になっている。どうもビジョンがはっきりしないでアクションとの関係が明確でないのが水戸黄門モデルの特徴でしょう。

最後は新撰組です。あくまで司馬遼太郎の「燃えよ剣」あたりからの知識ですが近藤勇はビジョン・リーダーと言えるでしょう。少なくともそうなりたかった。剣も強かったかも知れないが自分のビジョンに酔っていた。一方、土方歳三や沖田総司は剣は強かったが近藤の天下国家を論ずるビジョンにはあまり興味がなかった。武士らしく剣に生き剣に死ぬことにあこがれた。このリーダーシップ・モデルの最大の問題点はビジョンそのものが幕藩体制を支えるという時代遅れなものだったところにあるのでしょう。だからチームワークの点でいつも不安定なところがあり、逆にアクションに特化している土方や沖田ほど盲目的に近藤についてゆくという結果になったのではないかと思います。

こうやって見てくるとそれぞれ異なったリーダーシップとビジョンがあり興味深いですね。でも痛感するのはビジョン・リーダーがどのようなビジョンを持つかによってアクション・リーダーの能力の発揮され方が異なるということです。ビジョンが社会的な意義を感じられるものであり、そして時代の求めるところに合ったものであるほど、アクション・リーダーたちが嬉々として自分の持つ力を最大限にだして仕事をしてくれるのだろうと思います。例えば桃太郎の鬼退治はどうか、星野監督の阪神は?そして小泉首相の構造改革はどうでしょうか。色々考えて見るととても面白いですね。

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e-hanashi pv20040121
瞑想

藤井義彦さん著の「できるビジネスマンは瞑想をする」(東洋経済新報社)と言う本を読みました。著者は1940年に生まれ、慶應義塾大学を卒業後、鐘紡に30年「会社人間」として勤めその後、50歳でビジネス・スクールに留学、外資系企業の社長へ転職。さらに現在はベンチャー企業を起こしているという人です。その藤井氏は20年余り前に超越瞑想(Transcendental Meditation、以下TM)に出会いそれを実践します。この本ではTMを始めてからどのようにライフスタイルや健康状態、心の状態が変わったかなどを自らの経験をもとに書いています。

著者が最も強調している点は瞑想は宗教とは無関係であるということ。瞑想は「人間の意識を扱うテクニック」であり「自己実現を促す極めて簡単な方法」であるとしています。そして瞑想により@疲労を回復できる、Aストレスをためない、B集中力が高まる、C平常心が保てる、Dアイデアが浮かぶ、E人間関係が良くなる、F運が良くなるなどの効果が現れると述べています。さらに幅広く瞑想、特にTMについての分かりやすい説明がされています。

実は私が実践している瞑想法もこのTMなのです。私が瞑想を始めたのは1991年です。最初は神道系の瞑想道場で基礎を教えてもらいました。興味本位で断食をしたり滝行をしたり、修験道の出羽三山修行の旅に何年か続けて参加したりしました。しかし、だんだん、私の中でこの世よりもあの世、物質世界よりも精神世界、体よりも心、仕事よりも修行が大切という基本的な考え方に抵抗感が強まってゆきました。心と体を共に健康にしてエネルギーにあふれた人生を送ることこそ、せっかくこの世に生まれてきた価値というものではないだろうか。無理なく仕事をしながら精神性を高めて行けることはできないのだろうか。そんな思いがだんだん膨らんで行ったのです。

そんな時、TMの創始者、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの著書にであったのです。そこには非常に明確に我々は日常生活と瞑想を溶け合わせることでどちらか片方だけではない200%の人生を送ることができるのだと書かれていました。そして瞑想は誰でも簡単にできる「意識を扱うテクニック」であり神秘的な、宗教的なものではないとありました。「これだ!」という訳で1996年末にTMのテクニックを学びました。それ以来、原則、朝と夜(夕方)に20分ずつ瞑想をしています。

我々、体が疲れると睡眠をとったり休んだりして回復しようとします。しかし、心が疲れてもそのまま放っておく人が多いのです。まあ、良いとこカラオケでストレスを発散したり、趣味に興じたりするぐらいでしょうか。しかし、これで本当に心を休め心の静けさが取り戻せるのかと言うとちょっと疑問です。睡眠によってある程度は心を休めることもできます。しかし、夢をたくさん見て朝、起きると心が疲れ果てていることもよく経験します。結局、人間の心はそんなに強いものではなく、とてもショックに弱い繊細なものなのでしょう。それを現代人は気づかず心をこき使っている気がします。

なぜ心にストレスが溜まるかと言うと、私が思うには外界からの色々な刺激に対して意識的であれ無意識であれ自分とか、家族とか、自分が所属する組織など自分に身近なものを守ろうとしているからではないでしょうか。本来、人間はより大きなもののために働く時、幸福を感じると言われます。つまり、我々はより大きなもののために良いことをし、より大きなものと一体感を感じた時に大きな幸せを感じるようにできているのに、現実の生活ではより小さいものを守ることに必死になっている。そこにストレスの原因があるのではないかと思うのです。

人間の心は連続したいくつもの階層でできているようです。自分という意識があって、自分の帰属する社会意識があって、さらに人類としての意識がある。その向こうには生命体としての意識があり地球という意識がある。もっと言えば時空を越えた宇宙意識がある。心の奥の方に行くほど大きな意識が支配しており、表面ほど小さな自分の意識が支配している。

通常、我々の心の中は五感を通して入ってくる情報に感情が反応していつも大きく揺れ動いています。まるで暴風雨状態です。しかし、目を閉じて静かにして五感の刺激を減らしてゆくと心のざわつきが静まってゆきます。ちょうど海面に近いほど波が荒いのがだんだん海の底に深く入るほど波は穏やかになるのと同じです。そして言葉がなくなりただ想念だけのところがあり、その先には想念すらないところがあります。ただ自分が「存在している」だけの状態。そこにしばらくいて心を休めそれからまた海面にでてきて日常の生活をおくる。わずかな時間、これをするだけでも心が元気になってバイタリティーあふれる生活ができることが実感できます。

瞑想をしていると個体としての自分と外界との間を仕切っている意識の膜がだんだん薄くなってくる気がします。その境目がぼんやりしてきて自分が人類全体や地球、宇宙と溶け合った存在であることに気づくようになります。普段は自分が中心になっている意識が少しずつ深いところに踏み込むと自分が人類、地球、宇宙という大きな存在の一部でありそれは決して滅することのないものなのだということに気づいてゆくのでしょう。だから心が安らぎ元気になるのです。

自分、人類、地球、宇宙など意識が把握する各レベルにはそれを支配する法則があります。自分を、人類を、地球を、そして宇宙を支配する法則などです。下位のレベルの法則は上位の法則に従います。例えば地球を支配している法則は宇宙を支配している法則に従っているようなものです。

瞑想をして自分がただ「存在する」だけの意識状態になる。そこにあるインパルスが生じる。そのインパルスは心のなかで想念となり、言葉化されることで具体的な事柄となって意識の表面に到達します。このような深いレベルのインパルスに根ざした行動はより高度な普遍的な法則に基づいたものですから下位のレベルの法則が支配する現実の生活においてそれが実現する可能性が高いのです。

一方、我々の日常の行動は表面的な感情や意識によって引き起こされていることが多い。そのような行動はえてして普遍的な法則に反するエゴに根ざしたものです。こういう行動は上位の法則に反することが多いのでうまく行かない。瞑想をすると物事がうまく行くというのは、瞑想中の深い意識に基づいた行動の動機が、現実レベルの生活を支配している法則よりもう少し上のレベルの法則に則っているからだ言えます。それで自然の支援が得られて事がうまく運ぶのです。

目を閉じてじっとしていると色々な思いがたくさんでてきます。TMではそれで良いのだとしています。どんどん出してやることがストレス解消です。そのうち、「あれ、瞑想していたのにこんなことを考えていた」と気がつきます。それがそのストレスの切れたときです。それで、しばらく静かにしているとまた別のことを考えている。次のストレス解消が始まっているのです。こうしてこれを毎日、少しずつでも繰り返しているとコーラのアワがなくなるように雑念があまりでなくなります。そうするとストレス解消が進んできたことになります。TMでは寝てしまっても良いと言います。これは睡眠不足というストレスが解消しているのですから。一週間も休暇をとると最初の二日ぐらいは「あれや、これや」いろんなことが瞑想中に浮かんでは消えてゆきますが、だんだん日がたつとそのような想念も浮かばなくなり静かな瞑想ができるようになります。

私の場合はTM瞑想を始めてからどんな大変な状態の時でも結構、静かな気持ちで判断を下せるようになったように思います。仕事が大量にやってきても落ち着いてひとつずつこなせるようになりました。また、毎日が楽しくなった気がします。ともかく現代人、とりわけサラリーマンの心の中は暴風雨状態のことが多いように思います。特に日本は国として多くのストレスを抱えています。毎日、少しでも瞑想する時間をもつことが大きな助けになると思いますし、この本の題名のように「できるビジネスマンは瞑想をする」のかも知れません。

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e-hanashi pv20040111
リーダーシップとビジョン

組織におけるリーダーシップの役割についてよく考えます。日本における伝統的なリーダーのイメージは組織の「長」であり「何でも知っていてその人がすべてを決定する一番えらい人」と思われています。例えば織田信長や徳川家康みたいな歴史上の人だったり、一代で企業を作り上げた松下幸之助さんのような人だったり、あるいはジャック・ウエルチやビル・ゲイツのようなアメリカン・ドリーム型だったりします。これらに共通しているのはリーダーとは「組織の頂点に立つ特別の人」で「人々を引き連れて約束の地へ導いてくれる」ことを期待された人だということです。このようなリーダーシップではピラミッドの頂点の人がすべての決定を行い、とるべき行動が上意下達で下におりてきます。つまり、「行動する人」は言われたことをするだけで何をするかとかどのようにするかは決定しないのです。そしてこのようなリーダーシップだと変化の急激な現代では間に合わなくなってきているのです。

なぜ間に合わなくなってきているかと言うとひと言で言えば経済の付加価値の源泉が肉体労働から頭脳労働に変わったからです。頭脳労働が中心となると生産設備は自分の頭のなかにあることになります。したがって「会社への忠誠」から「自分の仕事への忠誠」に働く人の価値観が変わる。仕事を通じて得た経験は個人に帰属する。しかもその知識はどんどん細かく細分化されより深い知識や経験が必要とされるようになる。当然、トップがすべてにわたって深い知識を持つことなど不可能になり、その分野の知識や経験では担当者の方が優れている状態になる。一方で各人の分野が細分化するので働く者全員の協働やチームワークが不可欠になります。全員が違った楽器を持って演奏しているジャズ・コンボのようなものです。それぞれが自分の楽器の専門家で最高責任者でありながら全体として調和の取れた音楽が演奏できるよう協力が必要なのです。したがってこのようなネットワーク型組織では全員がそれぞれの仕事のリーダーだということになります。

そのような組織で問題になるのはどのようにして組織が一体となって目標に向かって進んでゆけるかということです。私はリーダーシップにはビジョンとアクションという二つの要素があると考えています。ビジョン・リーダーは組織のあるべき姿、目指す方向を明確にする。アクション・リーダーはビジョンに沿った行動を考え、実行し、結果をだすことが仕事です。そして組織の中で経営に近いほどビジョン的要素が強まり、現場に近いほどアクション的要素が強まります。経営に近いか現場に近いかによってこの二つの要素の構成比は一人ずつ異なるわけです。同時に大切なことはビジョン・リーダーもアクション・リーダーも職務の種類が異なるのみで価値には差がないということです。経営に近いほど広く浅く、現場に近いほど狭く深いという違いがあるだけです。


ビジョン・リーダーは@適材適所のアクション・リーダーを配置すること、Aビジョンに基づきアクション・リーダーに何を期待するかを明確にすること、Bアクション・リーダーが仕事をしやすい環境を作ること、Cアクション・リーダーの出した結果に対する責任を負うこと、最後にD成果をビジョンに照らして検証し報いることが役割です。この際、Aの何を期待するか、つまりオブジェクティブはよくS-M-A-R-Tでなければいけないと言われます。Sは具体的(specific)、Mは数値で測れる(measurable)、Aは達成可能な(achievable)、Rは定期的にチェックできる(regularly checked)、最後のTは期限の明確な(time bound)という意味です。

ビジョン・リーダーの役割はビジョンを明確にすることですがこれがまさに組織がうまく機能するかどうかのカギを握っていると言えます。私はビジョンを設定するのには言霊、メッセージング、コミュニケーションの三つが重要だと思っています。まず、言霊。ビジョンは直感的に心に響くような内容でないといけない。そして聞くもののエネルギーを沸き立たせるようなものでないといけない。次にその概念をメッセージにする際には短く誰でもすぐ覚えられるものにしなければいけない。K-I-S-S (Keep it short and simple) です。そして毎日、行動をとる上での指針となるものにしたいものです。最後はそのメッセージをどのように相手に伝えるかです。ゆるぎない自信に満ちた話し方で何度も何度も繰り返して聞く人の心に刷り込んでゆくことが必要です。

そのようなメッセージの好例をいくつか紹介しておきます。ビジョンもこのようなエネルギーに満ちたメッセージにできればすばらしいと思います。

Ask not what your country can do for you. Ask what you can do for your country. (ケネディー大統領)
これって良く考えるととんでもないことを国民に言っているのです。国が何かしてくれるんじゃないんだ。君らが国に貢献するんだっていうのですから。でも国民はみんなこれを聞いて感激した。

I have a dream.... (キング牧師)
1963年「ワシントン大行進」のスピーチです。この文章でスタートするいくつものセンテンスが続いています。それらをすべて統合してこのひと言は印象的だし、これを聞くと残りのすべてを思い出します。

If Japanese can do it, why not Americans? (アイアコッカ)
アメリカの自動車メーカーが日本にぼろぼろにやられていたころクライスラーを立て直そうとしての発言。アメリカ人労働者のエネルギーを奮い立たせた。

ある本でリーダーシップには二種類あるということを読んだことがあります。存在のリーダーシップと行動のリーダーシップです。その人がいるだけでなぜか物事がうまく行くのが存在のリーダーシップ。具体的行動の見本になるのが行動のリーダーシップ。結局、存在のリーダーシップというのは私が考えるビジョン・リーダーの究極の姿かもしれません。老子も面白いことを言っています。「大上は下、之有るを知るのみ」、つまり最良の君主は民衆が「そういう人がいるらしいな」と知っているだけの君主であると言うのです。次が親しまれる君主、三番目が畏れられる君主、そして最悪が侮られる君主であると言っています。老子が親しまれる君主よりも上に存在するだけの君主を持ってきている点がとても面白いと思います。結局、ビジョンを人格化したような人が中心にいて組織のひとり一人が自分の持ち場のリーダーとしてネットワークを構成し最大限の能力を発揮してくれるような組織が理想です。ともすればリーダーは鼻息も荒く旗を持って先頭を走るようなイメージがありますが、ただいるだけですべてがうまく行くリーダーなんてかっこいいなあと思います。


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e-hanashi pv20040104
減量達成!

明けましておめでとうございます。今年もe-hanashiをよろしくお願いします。

さて、1月3日の日本経済新聞のNIKKEIプラス1に「何でもランキング:夫・妻の年頭決意」というのがでていました。大変、面白いことに夫も妻も「ダイエットする」というのが上位を占めているのです。こうなってくると昨年、減量に成功した私としては是非ひと言、言いたい!e-hanashiの読者の方で減量をしたいと思っている方も多いだろうと思い、私の自慢話(?)をご紹介します。参考になればうれしいです。

まずは以下のグラフをご覧ください。青の線は一日当たりのウォーキングの歩数です。ピンクの線は私の体重です。ともに日々の変動をなだらかにするため三日移動平均を使って表示しています。ご覧のように私は6月の初めには約77KGありました。そして7ヶ月かけて12月末についに65KG割れまで減量に成功しました。



2002年、私は体調があまり良くありませんでした。どうも夜など咳き込むことが多く、また、貧血だったり体に湿疹がでたり腰が痛いこともしばしばでした。ともかく何か非常に体のバランスが狂っている感じでした。一方で体重はそれまでずっと72〜73KGで安定していたのに徐々に増え始めていました。

2003年になりこれではいけないと思い運動を兼ねて通勤の最初の一駅と最後の一駅を歩くことにしました。通勤時間は10分増えましたが歩く時間が片道15分から30分になり、往復で一時間のウォーキングとなりました。通勤のみで歩数にして約8000歩です。それに日中の動きを入れて最低一日に一万歩を歩くことを心がけるようになりました。歩数計を買ったのが2月1日です。6月末にはインターネットの健康ウォーキングに登録して毎日、歩いた歩数を入力、バーチャルな旅を始めました。しかし体重は減らずに6月の初めには77KGをつける始末でした。

そのとき新聞であるテレビタレントが「ウォーキングで痩せようとしたがずっとだめだった、しかし、半年続けたら効きだした」という記事を読みました。それならともかく半年は続けてみようと思い歩き続けました。また、少し高級な体脂肪と内臓脂肪も分かる体重計をかって記録を毎日つけ始めました。それが8月の初めごろでした。


その頃から少しずつ効果がでてきました。特に8月上旬に夏休みをとり東京の散歩コースの本を買い自宅に近いところを徹底的にウォーキングするようにしました。上のグラフで歩数の線が8月ごろに上昇しているのがそのときです。同時に昼食を制限しました。食べたのはアーモンドを4粒ぐらい。私は朝食は食べないので実質的に夜一食のみでした。その頃から体重が目に見えて減り始めました。こうなってくると面白い。毎日、体重を計るのが楽しくなりグラフを毎日つけて変化を計測しました。ともかく70KGを切ろうと思い努力を続けました。

その頃、あるお医者さんから私の場合、体重を65KGに落とさなければいけないと言われました。70KGを目標にがんばっていたのにゴールはもっと遠かった。これは少なからずショックでしたが「それでは65KGを切ろう」と心に決めました。そしてこの目標を達成したらご褒美に少し高級なデジカメを買おうと決めたのです。

秋になっても同じように昼の節食とウォーキングを続けました。昼飯は家からアーモンド4粒、レーズン10粒、クラッカー3枚とチーズ一個、そしてリンゴ半分を持ってゆきそれですましていました。また、昼に時間のあるときは会社の近辺を15分でも30分でも歩くことをしました。もちろん会食なども多くダイエットもままならぬことが多かったのですがとにかくディナーのある日は昼を極力減らすなどして努力を続けました。こうしてついに12月21日、体重が64.9KGをつけたのです。遂にやった!満願成就の気分でした。

現在もウォーキングは相変わらず一日最低一万歩を目標に続けています。健康ウォーキングのバーチャル・トリップでは東海道、山手線三周を完歩。現在は四国八十八札所お遍路の旅に登録していますが阿波の国、土佐の国を歩き終え現在、伊予の国を歩いています。また、週末はできるだてジムで泳いでサウナに入っています。もちろん体重計は毎日つけています。気がついてみると随分、体調は良くなったと思います。朝起きるのがずっと気持ちよくなった。あまり疲れなくなった。腰痛も減り夜中に咳き込むことも減ったように思います。そうそう、ご褒美のデジカメも買いました。

私の経験からして体重を減らすには以下が大切だと感じました。みなさんのご参考になれば幸いです。

1.   ウォーキングなどの運動ではまず体重を減らすことはできない。ただ、運動をしていると太りにくい体質になることは事実のようである。
2.  減量には食べる量を減らすこと以外の方法はない。いかにいつも食べ過ぎているかを知ることが第一歩。
3.  ただ、「ダイエットする」などというあいまいな表現でなく「何キログラム減量する」という具体的な数値目標を設 定すること。
4.  体重計は少し高級なものを買い毎日100グラム単位で記録をつけること。歩数計も同様で毎日、歩いた歩数を記録する。健康ウォーキングなどのホームページも有効。具体的な結果を達成したければプロセスを数値で計測しなければならない。
5.  ゴールを達成したら自分の欲しいものを買うなど、はっきりと自分へのご褒美を決めておく。

こんなところでしょうか。私はあと2KGぐらい減量しておきその後は65KGを上限とした体重維持をして行きたいと思っています。
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e-hanashi pv20031228
私さがし

<時の流れのなかで>
長い時の流れを経てこの年もまた過去の領域に入ろうとしています。毎年、年末になるとなぜか長い歴史について考えてしまいます。歴史といっても人類の歴史だけではなくこの世、この宇宙の歴史です。ビッグ・バンがあって時空が誕生したのが150億年前。それから星が生まれ物質ができたのが100億年前。太陽系の惑星が生まれたのが46億年前だと言われます。地球もそのころできたのですが約40億年前には海と大気ができ、38億年ごろには非生命から生命が誕生し、35億年前にはバクテリアやラン藻類などの原始生命が出現しています。そして種々の生物が生まれ、絶滅して500万年前にはチンパンジーと人の祖先が分岐して50万年前には原人が現れています。

46億年の地球の歴史を一年に短縮してみましょう。最古の岩石は3月半ばにできました。4月には原始生命体が生まれています。そして、海に最初の生物が現れたのは5月ごろです。10月中旬には多細胞化が進み陸生植物や動物は11月に出現しています。12月の4日位までには広範囲の低湿地が繁茂し、12月中頃には恐竜がはびこりました。しかし、26日にはそれも姿を消し、それと前後してロッキー山脈が始めて隆起しました。初の哺乳類は12月23日に出現、人類らしき生物が現れたのは12月31日の夕方ごろでした。北京原人は夜11時、文明の始まりは大晦日の夜11時59分30秒のころです

何が言いたいかというと長い宇宙の歴史のなかで地球の歴史は短いし、人類の歴史はもっと短い。まして日本人の歴史、私個人の歴史となるとほんとうに一瞬の出来事でしかないということです。私のDNAはその長い歴史を分裂を繰り返しながら生き抜いて現在の私に到達している。永久に生き続けているDNAの乗り物としていま、私がここにいる。だから現在の私は宇宙開闢以来の歴史の産物です。

進化を逆にたどってみましょう。私には親がいます。その親にも親がいました。その親達にも当然、親がいました。こうしてどんどん何万年も、何億年も遡ってゆくとその親達はみな原人であり、猿人であり、そしてさらには原始的な魚類にもなりもっと、遡ればバクテリアやラン藻類のようなものになってゆくのです。結局、我々みんなおんなじ祖先から生まれているのですよね。それをもっとたどって行くとどこかで非生命体になり、もっと遡ると何もない状態になってしまう。まあ、そこまで戻らないにしても、人間と馬のDNAが非常に似ているといっても驚くには当たりません。長い進化の歴史をたどれば同じ哺乳類仲間で極めて近い関係にあるのですから。

<空間の広がりのなかで>
「わたし」には、みなさんと私を区別する「個」があるわけですが、「個」というものはよく考えると様々な「共通項」が複雑に重なりあってできているものだと思います。私は現代人としてみなさんと共通の部分があります。日本人だという要因もあります。また、戦後のベビーブーマーであるということも言えるでしょう。言うまでもなくこれまでの教育や仕事のキャリアも私の性格を形作っています。もちろんそれ以上に人類としての「わたし」があり、また、動物として、生命体としての存在があります。さらに私は物体でもあり、私の中には石や星と同じ部分があります。これらの多様な要素が複合的に重なり合って私ができています。

仏教的には「縁」ということなのでしょう。はじめにまわりのすべてのものとの関係や係わり合いがあってそれによって自分という「個」が存在している。だから「わたし」は宇宙開闢以来の歴史を背負っていると同時に無限の広がりを持ったネットワークに支えられて存在している。時間と空間のマトリックスの中のひとつの点であると言えるのかも知れません。さらに言えばその広がりがより大きな生命体を構成していてその一部として私がいる。宇宙という大きな生命体の一部が地球というひとつの「細胞」で、その地球という生命体のまた、ひとつの「細胞」が人間などだと言うことです。ある意味、総体としての人間もひとつの生命体ですから私はその中のひとつの細胞です。そして私という生命体も無数の細胞という生命体でできている。

たくさんの細胞でできた私という生命体がうまく機能しているのはそれぞれの細胞が私を存在せしめるような活動をしているからです。同じように人類は地球という生命体のためになることを目指すのが使命でしょうし、地球は宇宙のために存在する細胞なのです。つまり、より上位の生命体の意思に沿ったことをするのが下位の生命体の存在意義であるということです。人間の細胞にも人間の生存を脅かす働きをするものが時々でてきます。がん細胞などです。でも良く考えてみると環境破壊を続ける人間は地球という生命体にとってのがん細胞かもしれない。

<時間と空間の中に存在する私>
私は宇宙開闢以来の歴史の産物である。そして無限の広がりを持つ宇宙的な関係、縁、係わり合いの中で生かされている時間と空間のマトリックスの中のひとつの点である。そう考えると私が存在していることのありがたさが身にしみて分かります。また、過去から現在に至るこの世のすべてのものたちに対する仲間意識、愛おしさを感じます。私が宇宙の歴史と広がりの中に存在する感じられるのです。そしてより大きな生命体の意志と合致した行動をしている細胞でありたいと思います。

大晦日は除夜の鐘でも聞きながら永遠の時空の世界における「私さがし」に思いをはせる絶好の機会でしょう。そうすると、どうして人類同士が仲良くできないのか、なぜ人間は動物や植物の命を軽んずることがあるのか、なぜ、自分が膨大な時空のマトリックスの中で生かされていることに人間は気がつかないのか・・・そんなことがとても悲しく思われてきます。年末、そして新年、人類の心が愛に満ちて世界が平和になることを静かに祈りたいと思います。良い年をお迎えください。

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e-hanashi pv20031224
開運の秘訣

ある研修会社の方と話をする機会がありました。この会社はアナリスト研修やフィナンシャル・プラナーなどの資格取得が業務の中心らしいのですが、最近は外資系企業へのマナー研修が増えてきているとのことでした。一般的に日本の企業だと入社時点でしっかりとビジネスマンとしての行儀作法を教え込まれるケースが多いのですが、外資の場合にはなかなかそこまで手が回らないのが実態です。しかし、外資系とであっても日本でビジネスをしている以上、お客様は日本の企業が多い訳で、社員のマナーといった定性的要因がビジネスにも重要になってきているのだと思います。

この方の話したことで特に「なるほどな」と思ったのは、「挨拶と笑顔」が究極のマナーであるということでした。人間は相手が自分を認めてくれないときにもっとも不愉快になるそうです。人間として生きていて、存在が認められないのはたしかに不安感を引き起こすでしょうし、それが怒りの感情に火をつけるということはあるかもしれません。相手の目をしっかりと見て笑顔できちんと挨拶する。それだけで相手の持つ印象は全然、変わります。また、それが自分にとっても大きなメリットを生み出すことになるのです。日本人は相手の目を見て話すことが不得意ですよね。また、日本語は口元の筋肉をあまり使わない言語なのでかなり意識しないと口元が下がってしまう傾向があるのだそうです。

そこで昔、読んだタオイズムの本に書いてあったことを思いだしました。その本によると開眉仰月口(かいびぎょうげつこう)というのが開運の秘訣なのだそうです。眉を開く、そして月を見るときのように口元を少し上げた口をする。これだけで人にいい印象を与え、自然に幸運が舞い込んでくるというのです。その反対が寄眉覆船口(きびふくせんこう)です。眉を寄せて転覆した船のような口をしていると人はだんだん離れていってしまいます。下の絵の左側が開眉仰月口、右側が寄眉覆船口です。たしかに右側のような人とはあんまり付き合いたくないですよね。

開眉仰月口     寄眉覆船口


我々、にこやかな人を見ると「きっとあの人は良いことがあったに違いない。だから良い顔をしているのだ」と思いがちです。しかし、ここで発想を逆転すると「良い顔をしている結果、良いことが起こっている」とも言えるのです。日本では昔から「笑う門には福来る」と言います。これも同じ。朝、起きて洗面の時、鏡の自分に向かってにこやかに「おはよう!」と元気に挨拶するのも良いと言います。試してみてはいかがですか?


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e-hanashi pv20031221

インベストライフ

インベストライフという雑誌があります。と、言っても2003年創刊の発行部数1000部にも満たない生まれたての雑誌です。発行者は株式会社オフィス サンサーラ。編集主幹はテレビなどでおなじみのフィナンシャル・プラナー、伊藤宏一さん。編集委員には長期投資を売り物に個人投資家に幅広く保有されているさわかみ投信の社長、澤上篤人さんなどが名を連ねています。

私は澤上さんとは二十年来の知り合いで一時は一緒に太極拳などもやっていた仲です。それ以上に澤上さんも私も日本の資産運用のあり方に疑問を持っている仲間でした。そんな不満が澤上さんをして自分の会社を立ち上げさせ、私は現在の資産運用の会社の経営に関与するようになったのです。そんなご縁で私もこの11月よりこの雑誌の編集委員の一員として加わりました。もちろん私、個人としての社会活動の一環です。微力ですがこの雑誌を本当に投資家のためになる良い雑誌に育てひとりでも多くの人に読んでもらえるようにしたいと思っています。

この雑誌はその名前からも分かるようにインベストメントとライフについて考える雑誌です。「長期投資仲間通信」と別名がついています。つまり、より豊かな人生のための資産運用を考えようという視点が貫かれています。一般のマネー雑誌はほとんど「いま、株は買いか売りか」とか「どの銘柄を買ったらもうかるか」などに焦点が当てられています。この雑誌はあまりそのような点には触れていません。それよりも長期的な視点からどのような「考え方」で資産を運用するべきかのヒントが書かれています。投資というものに対する基本的な「考え方」を啓蒙しようとしているのです。これは「いま、株を買うべきか」とか「どの銘柄を買うか」ということよりもはるかに重要なことです。そんなところにとても共感しました。

私も早いもので証券界に入って32年、AIMR認定証券アナリスト(CFA)となって20年、資産運用に携わって13年、そして資産運用会社の経営を担って11年になりました。この間にたくさんのことを勉強させてもらいました。でも証券市場はいまだに不可解です。そしてますます魅力的です。ご存知のように日本の個人金融資産は預貯金が大半で有価証券や投資信託が非常に小さいといういびつな構造を持っています。私自身、まだまだ未熟で分からないことだらけですが、私が学んできたことで何か読者のヒントになることはあるかも知れません。この雑誌が個人投資家の方に投資に関する理解を深めてもらえるきっかけになればと願っています。私が証券界からいただいた知識を少しでも社会に還元できればと考えています。ヨチヨチ歩きの雑誌が立派に育ってくれて、それが日本の証券市場の健全な成長に役立ってくれればこんなにうれしいことはありません。そんな夢を抱かせてくれる雑誌です。

インベストライフのホームページは以下の通りです。内容のサンプルもあります。ご覧ください。

http://www.sansara.co.jp/invest/

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e-hanashi pv20031211
香港雑感

<SARS禍>
香港は一年ぶりの訪問でした。でもこの一年の間にSARSの問題が起こり香港も色々なインパクトを受けたようです。私の友人は子供が二人いますが二ヶ月間にわたっておばあちゃんと会えなかったといっていました。おばあちゃんが心配して会いにこないで欲しいと言っていたとか。外出する人も激減してつぶれたレストランや店舗もずいぶんあったそうです。このように事態が深刻になったのは香港政府の対応の悪さに原因があったと指摘する声が強いようです。シンガポールなどはあくまで市民を守ることを最優先して政策を実施したのに香港政府はビジネスへのインパクトを重視するあまり最適な手段がとれなかった。北京はすぐにSARSの専門集中病院を作ったが香港ではそれぞれの病院が患者を受け入れてしまい更に感染が広がってしまったという話を聞きました。すごく興味深かったことがあります。今回、香港について最初に気が付いたのがずいぶん街がきれいになっていることでした。これも理由を聞いてみるとSARS撲滅のためにゴミを道路に捨てたりつばを吐いたりしたときの罰金がHK$400からHK$1600に上げられ、衛生局の職員が街を巡回して厳しく取り締まったからだとか。思わぬ副次効果もあったようです。

<中国の影響>
これまでは英語で授業をする学校の方が広東語で授業をする学校よりもずっと多かったのですが、最近は次第に英語の学校が減り広東語の学校が増えているそうです。香港は英語教育が幼稚園から始まり比較的英語が通じやすい都市です。これは国際都市としての香港の強みでもあるのですがそれが次第に薄れてゆくと懸念する人もいました。特に中央政府からそのような指示がでているのではなく、香港政府が気を使ってそうしているようです。教育内容などについてはあまり変更がないとのこと。ただ、北京語が必修科目になり北京語を広東語で教えているというから面白いですね。それから中国の人間は大人も子供も非常に良く勉強をする。人よりちょっと先にでれば生活水準が大きく改善するのでインセンティブが働くのです。それに対して香港はすでに豊かになっている。子供たちも生活が安定していて親が面倒をみてくれる。だから中国本土の子供と比べてハングリー精神がないと聞きました。やはり、中国と香港が近づいたことでこのような行動パターンのコントラストも明確に見えてきているのでしょう。これは香港にとっても将来的には良い刺激になるかも知れません。日本も本当はこのような刺激が欲しいところだと思います。

<国際都市、香港>
今回も香港という街が本当の国際都市として成長していることを感じました。新しい高層ビルがどんどん建設されて、街そのものに近代的な美しさがでてきているように思いました。それらのビルの間を渡り廊下のようなペデストリアン・ブリッジがつないでネットワークを作っています。ホテルであるビルへの道を聞くと地図を出してきて道路のないところに線を引き行き方を教えてくれました。変だなと思ったらこれがその渡り廊下だったのです。地図にでている道路にオーバーレイする形で道路とは別の歩行者用のネットワークがある。これは夏暑く雨も多い香港には最適なのでしょう。新しいビルができると必ずこの渡り廊下がつながるそうです。なんだか街全体が二重構造になっているような気もしました。下は昔ながらの香港、上は国際都市としての香港という訳です。新しい飛行場を降りてエアポート・エクスプレスに乗ればわずか23分で市内の中心、セントラルに到着です。料金はHK$100(1500円ぐらい)でしかも10分〜15分に一本はでている。もちろんこれに加えてバスがやはり10分おきぐらいにでています。入出国手続きも簡単だし税関検査もほとんどない。よく成田でカバンを開けられている外人旅行者を見かけますがそんなことはほとんどないようです。

<遠すぎる成田>
しかし、なんと言っても成田は遠すぎますよね。香港の友人が80年代の中ごろ東京の大学に留学していたときのことだそうです。香港から訪日したお姉さんを見送りに成田に行きました。見送りを終えて立川の自宅に帰って電話をしたらすでにお姉さんは香港の自宅に着いていたという笑い話のような本当の話もあります。これが10数年前の話です。こんな問題があるのにどうして今になっても解決されていないのか不思議だと指摘されました。香港だったら「時間の損はお金の損」、とてもじゃないけれどこんな状態が放置されることは考えられないと言っていました。香港から東京の飛行機はわずか3時間20分でした。それだけに余計、成田からの時間が長く感じられました。英語の問題は別にしてもこの遠すぎる成田の問題を解決しないとアジアの中心を香港やシンガポール、あるいは上海などに奪われてしまうことになるかも知れません。


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e-hanashi pv20031124
芸術の秋

芸術の秋だからという訳でもないのですがここのところアートに接する機会が増えています。まず、11月10日には浜離宮朝日ホールで岩城宏之とオーケストラ・アンサンブル金沢はギターの山下和仁をフィーチャーしての演奏会へ行きました。それから11月15日には損保ジャパン東郷青児美術館で「ゴッホと花」展を見て、22日はセルリアンタワー能楽堂で定期能11月公演へ行きました。

「ゴッホと花」展は「ゴッホと同時代の画家たち|ひまわりをめぐって」と副題がついているように@静物画としての花、A装飾としての花、B象徴としての花と三部に分かれて展示されています。特に@ではブリューゲル、モンティセリ、ルノワール、ピサロ、モネ、セザンヌ、マチス、ブラマンク等の花の作品も展示されていました。それぞれの画家がそれぞれの技法で花を描いていますがそれは当然、それぞれの画家の心象の違いでもあるわけで興味深かったです。Bでは二幅のひまわりの間に「ルーラン夫人(揺り籠を揺する女)」を配置して展示。これはゴッホ自ら弟のテオ宛ての手紙で示唆した三幅対だそうです。これを実際に目にすることができたのは幸せでした。

それから能。たしかニューヨークで見て以来だと思うので能を見るのは20年ぶり以上でしょう。渋谷のセルリアンタワーにある能楽堂での定期能11月公演でした。狂言(和泉流)で舟渡聟。能(宝生流)は張良でした。私は能も狂言もそんなに知らないで見たのですが、西洋的な再現写実の芸術と違って色々な要素をそぎ落とせるだけそぎ落としてこちらの心の中に豊かなイマジネーションの世界を見せてくれる芸に非常に興味を覚えました。少し勉強して見たいと思います。

さて、山下和仁のギターの話です。彼が自ら編曲した「展覧会の絵」で一世を風靡したのが1981年でした。私も80年代の中ごろに彼のこの「展覧会の絵」をナマで聞きその超絶技巧に腰が抜けるほどおどろいたものでした。その後もドボルザークの「新世界」全曲をギター一本で弾いたり、バッハの無伴奏バイオリンのためのソナタとパルティータと無伴奏チェロ組曲など野心的な演奏をしていました。ただ、最近は我々レベルでもそれなりには弾けるような中級向け作品を一音ずついと愛しむような弾き方に変わってきていたように思います。また、現代曲などでもむしろ技巧を誇るような演奏ではなく静寂をギターで表現する努力をしていたのではないかと考えていました。

この日の演奏は彼の奥さんでもある藤家渓子さんのギター協奏曲1番と2番。2番は「恋すてふ」という副題のついた曲です。ともに日本的な情感豊かな作品で山下のギターとピッタリあった作品でした。特に彼のギターが生み出す日本的な音色と和音はまさに静寂さととけあっていました。それからご存知のロドリーゴの「アランフェス協奏曲」。これは打って変わって山下の技巧を印象付ける演奏でした。普通のアランフェスよりかなり速いテンポで猛烈な速いパッセージ、しかも、一音づつしっかりと魂がこもっている。やっぱり超絶技巧の山下は健在でした。村治佳織や木村大、大萩康司など若いすばらしい才能をもったギタリストが輩出されていますが山下はもう巨匠の域に近づいているんだなと思わせる演奏会でした。

芸術って良く考えてみると不思議なものです。何かのイメージ、エネルギー、印象などを伝言ゲームのように次々に伝えるものなのですね。時にはその伝言ゲームが何百年も続く。ひまわりのエネルギーがゴッホを通してその絵に凝縮され、増幅され、それが我々の心に届く。能や音楽の作者が何かに触発されて表現したかったことを演者が受け止め、消化してそれを表現する。それが我々の心を打つ。芸術家の心に芸術として作り上げられたものが我々の心に共鳴して今度は我々の心の中に新たなイメージが作り上げられる。我々の心は普段は自我の分厚い壁に囲まれ閉ざされがちです。その真っ暗な部屋の中で自分の喜怒哀楽の感情にどっぷり浸かってうんうんうなっている。芸術はある意味、この閉ざされた心にやすやすと入り込んでくるのでしょう。だから、良い芸術に触れると窓を開けて光とそよ風を取り入れたような心地よさがあるのかも知れない。素直に心を開いて良い芸術に触れることは心のストレスを解消するのに良い、その理由はそんなところにあるのではないでしょうか。

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e-hanashi pv20031118
メトロ沿線ウォーキングに参加

先週の土曜日、メトロ沿線ウォーキングという営団地下鉄が主催した催しに会社の友人二名と共に参加しました。少し曇り空でしたが最後まで雨に降られることもなく楽しいウォーキングでした。9時45分に青山一丁目駅で参加登録をして黄色いリボンをもらい出発。地下鉄の駅をでて明治神宮外苑の銀杏並木を歩きました。銀杏はまだ十分に黄色くなっていませんでした。それから絵画館の前を通って千駄ヶ谷駅を右に見て北参道から明治神宮へ。本殿でおまいりをしました。ちょうど七五三で着飾った子供たちがたくさん。平安時代の公家の衣装を着た子までいて「日本ってやっぱり豊かなんだなあ」との印象を強くしました。後から来た友人を待つため宝物殿に入って歴代天皇陛下の肖像画などを拝観。江戸時代にも女帝がいたことなどを発見。明治神宮をでる辺りで友人とも会うことができそこからは三人でのウォーキングとなりました。参宮橋から西参道を通り東京オペラシティを左に見て新宿四丁目を右へ。それから都庁を南から北に抜けて西新宿駅にゴールイン。全体で約1時間半の行程で歩いた歩数は約1万歩。係りの人に聞いたら多分、4000人ぐらいの人が参加したのではないかとのことでした。三人でビールで乾杯。あ〜ぁ、これでせっかく消費したカロリーを取ってしまった。

それで感想。まず第一に東京って意外に緑が多いなあということ。神宮外苑、明治神宮、新宿中央公園、新宿御苑。東京は公園が少ないと言われますがこの地域は決してそんなことはありません。第二に立派なハコモノがたくさんあること。秩父宮ラグビー場、神宮球場、絵画館、国立競技場、東京体育館、東京オペラシティ、むろん都庁と新宿の高層ビル街。それもみんな広々とした敷地に立っていて東京のせせこましい印象とは全然違う。いったい、いつの間に誰がこんなに大きな建物をたくさん作ったんだろう。絵画館のあたりなんて北京なみの広さですよね。第三の印象。日本はやっぱり豊かということ。明治神宮の七五三は言うに及ばず道路にそってあらゆる種類のレストランが並び、歩いている人たちもみんなブランドもののリュックを背負って。10年以上の構造不況と言われているけどやっぱり蓄積があるんでしょうか。そして最後は参加者のほとんどが私と同年代の「団塊の世代」だったこと。みんな、そろそろ健康が気になり始めて健康のためにウォーキングをしているご同輩のようでした。環境も良くハコモノも立派でこれまでの蓄積があるから不況でも結構、豊かな生活ができる。しかし、団塊の世代の高齢化が忍び寄ってきている。ちょっと今の日本の縮図みたいな気もしました。

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e-hanashi pv20031114
CFA授与式に出席して

CFAと言うのはChartered Financial Analystの略で1962年にできた証券アナリスト資格です。日本語ではAIMR*認定証券アナリストと訳されていますが一般にはCFAと呼ばれています。もともとはアメリカの資格ですが現在は後で述べるようにグローバルなものになっています。各国ごとにローカルなアナリスト試験もありますがほとんどこのCFAプログラムを参考にして作られたものが多いようです。この資格をとるためには年一回の試験が三次まで(今年から一次試験は年二回になりました)あり、平均4〜5年合格までにかかっています。また、試験の準備には5000ページの教科書を読むことが必要で合格者平均で1000時間以上の勉強をしていると言われています。
(*: Association of Investment Management and Research)

そのCFAの授与式が11月11日の夜、東京アメリカン・クラブで開催され私も出席しました。今年は日本で90名のCFAが誕生し資格保有者総数は900人弱になったそうです。しかし、全世界では今年、8800人が合格して累計で5万人に達したと言いますから日本のプレゼンスはまだまだ低いと言うべきでしょう。

私がCFAになったのは1983年。ちょうど20年前でした。当時は全世界でも7300名程度、日本では10名程度しかこの資格を持っている人がいませんでした。隔世の感があります。でも合格の知らせを受けたときのうれしさはいまでもはっきりと思い出されます。現在は四択問題が増えたと聞いていますが、私が受験した当時はこの試験はすべて論文形式でした。答案用紙は何も書いていないノートブック。「足りなくなったら何冊でもあげる」と試験官に言われ驚いたものです。これは英語のハンディキャップのある我々にはつらい条件でした。午前3時間、午後3時間の体力勝負はいまと同じです。

この資格の最大の特色はそのグローバル性と倫理を重視する姿勢にあるといえます。CFAの「C」はCharter。つまり、特許状なのです。一定の知識を備えアナリストという職業倫理に従って仕事をするプロフェショナルに対して贈られる称号です。倫理に関して記憶に残ることがあります。試験問題集の中に「自分の分析結果は『売り』であるにもかかわらず会社から『買い』推奨のレポートを書けと強制された。正しい対応はどのようなものか」というのです。正解を見ると「会社を辞める。そして会社がCFAに対して意に反するレポートを書くよう強制したことをCFAの協会に報告する」というものだったのです。そのような報告があれば協会はすべての協会員に対してその旨の報告を行う。そうすればそのような機関投資家や証券会社は信頼を失うことになる。こうしてCFAというものの立場が守られているのだとありました。レポートに署名する際、名前に続けてCFAと書くことの重みが分かるような気がしました。

また、CFAはグローバルである点も大きな特色です。どの地域に行ってもCFAという肩書きは通用する、つまり、ポータブル・クレジットだと言われる所以です。世界中の人が同じ知識と倫理の基盤を共有してその職業の地位の向上のために働いているというのはかなりすごいことだと思います。したがって、CFA同士のネットワークも強いものがあり、日本でも日本インベストメント・プロフェショナル協会(JSIP)などを通じて交流が行われています。当然、このような資格はプロとしての待遇にも反映されます。ある調査によると日本において同じポジションで働く人を比較するとCFAである人はない人よりも報酬が10%高いという結果もでています。

現在、日本でCFAの勉強をしている候補者は2200名います。世界では12万人。うち6割が米国以外です。特に韓国、中国、台湾、香港、シンガポールなどの地域ではそれぞれ5000人ぐらいずついて、しかも、年々、その数は急増しています。確かに長い期間、日本の市場が低迷を続けるなかで難しい資格をとるために苦労をしようというインセンティブがあまりわかないのかもしれません。日本のアナリスト資格であれば日本語で取れますから、そちらの方を選ぶ人が増えるのも止むを得ないのでしょう。しかし、本当の意味で世界に通用する資格にチャレンジする人があまりいないというのはとても残念なことです。


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e-hanashi pv20031025
情報→感情のメカニズム

我々の心はいつも外界からの刺激に反応して動いています。外界から何か刺激があるとそれを五感が受け取ります。そしてそれに反応してある感情が湧いてきます。その刺激と感情の間には一定のメカニズムがあるように思います。例えば赤という色を見ると何となく情熱的なエネルギーを感じます。青だったら静かな広々した感じ。緑なら若々しい成長のエネルギーといった具合です。これは基本的に赤=太陽、火あるいは血、青=海や空、緑=植物の生命といった連鎖が心の中でできあがっているからなんだろうと思います。人類が感情を持つようになってからずっと太陽を象徴する色は赤であると認識してきたのでしょう。そしていまや赤色の刺激を視神経が受け取ると自動的に情熱的な感情が湧きあがってくる「情報→感情のメカニズム」が人間の心にできあがっているのではないでしょうか。でもよく考えてみれば赤ければその物がすべて情熱的だとは限りません。ポストは赤いけど別に情熱的ではないですよね。でもなぜか、赤ければ、例えばトマトを見たって何か情熱的なものを感じてしまうのです。不思議だなあ。

もっと不思議なのは音という刺激です。たとえば、ド−ミ−ソと音が並ぶと長調の明るい和音ができます。でもソを一音上げてラにするだけで悲しい感じの短調になります。音一つひとつに感情を生み出す特性があるのではないことは明確です。ラを基音にして長調の和音だって作れるのですから。そうするとこの一音の違いで明るい感じになったり悲しい感じになったりする人間の感情って一体、何なのでしょうか。私のしろうと考えですが長調だと明るい、短調だと暗いと感じるのは笑い声と泣き声の音の並び方に関係があるのかもしれないなとも思っています。もし、そうだとするなら悲しいから泣くのではなく、泣くことを連想させる音の並びが悲しいという感情を生み出すというおかしな関係ができてしまいます。

世の中のさまざまな刺激が我々を取り巻き、我々はそれを五感を通して受け取り、脳でプロセシングをして行動しています。そのプロセシングの前工程で、感情はとてもメカニカルな関係付けの影響を受けているのかもしれないのです。そう思ってこの世の中を見回してみると本当はそんなに悲しむべきことでもないのにすごく悲しんだり、本当は良いことなのにすごく怒ったりという現象が非常に多いことに気がつきます。つまり我々が何かの事態に直面して喜んだり悲しんだりしているのはこの「情報→感情のメカニズム」に支配された結果なのでしょう。中国の古典、淮南子にある「人間万事塞翁が馬(*)」の話を私はとても好きですがこれもその辺のことを言っているのかも知れない。また、老子や荘子などが説いているのもこの常識を打ち砕くことの重要性を言っているのだろうと思います。

この人間がもっているメカニズムはまた非常に個人差の大きいものです。この個人差は人種とか環境、歴史、家系、家族、友人、宗教、教育、職業などある個人を形成する種々のファクターの影響を受けて作り上げられているのだと思います。それぞれのファクターが持っているバイアス(傾向)が複雑に重なり合ってある個人の「情報→感情のメカニズム」が構成されている。こうしてある刺激に対するその人の反応が決まってゆく。その結果、ある特定の刺激に対しては非常に過敏に反応し、しかもその結果としての行動がすごく過激だったりする人がでてくるのです。これはDNAレベルの話なんでしょうね。

インド的に言えばカルマということかも知れない。カルマを浄化するということ、あるいは仏教でいう八正道などというのはこのような色眼鏡というか、心のバイアスを偏りのない状態に戻すことを言っているのではないかと思います。荘子にでてくる中央の帝、「混沌」は、北海の帝と南海の帝をもてなしたお礼に外界の情報をインプットするための七つの穴を開けられますが、そのとたんに死んでしまいます(**)。また、インドのバガヴァッド・ギーターでは尊主クリシュナは「五感の支配者(フリシーケーシャ)」と呼ばれています。この「情報→感情のメカニズム」は根が深いだけに簡単に修正できるものではないでしょう。あるいは何度も生まれ変わって修行してやっとできることかもしれない。啓発とか悟りっていうのはそういう状態を言うのでしょうね。

参考
*: http://homepage1.nifty.com/kjf/China-koji/P-241.htm
**: http://www.isc.meiji.ac.jp/~sakai/edu/lec/chaos/chaos-95/tsld002.htm


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e-hanashi pv20031016
フィランソロピーと投資
 
先日、ある雑誌が企画した座談会で日本フィランソロピー協会の理事長、高橋陽子さんとご一緒しました。その他にテレビでもおなじみのファイナンシャル・プラナー、伊藤宏一さん、私の旧友、さわかみ投信の澤上篤人さんなどがいらっしゃいました。テーマは「フィランソロピーと投資」。フィランソロピーと言えば「博愛」、それと金儲け。この水と油のようなテーマでどんな話になるのかなと思っていたらとても面白い議論が展開される結果となりました。
 
高橋さんがおっしゃるには日本には昔からお互いを支えあう文化があった。「分相応」という基準がありそれを越えた分は人のために使うという考え方があった。自然にお互いがお互いを支えるカルチャーが日本にはあったというのです。それが明治時代から変化し始め、戦後の経済至上時代に入ってこの古き良き伝統が失われてしまった。しかも、明治以降、「公(おおやけ)」という概念が浸透し人を助けるのは公(お上)の仕事だとだれもが思うようになってしまった。つまりヨコ型の支えあいがタテ型の補助になってしまったのです。

高橋さんによれば仕事には「稼ぎ」と「勤め」の二つの側面がある。近江商人には昔から「売り手良し、買い手良し、世間良し」という「三方良し」の経営哲学がある。個人も企業も「世間良し」という基準を持っていた。世の中のためになるという「勤め」があり、それに対して「稼ぎ」がある。稼ぎは世の中から与えられているものだから、それが適正な水準を超えたら社会に還元することが当然。それが企業や個人にとってより大きな成功と満足をもたらすことになる。それが利益至上主義になってしまったのが現在。これからは公だけではなくて民による公益が必要と主張されていました。
 
また現代では寄付をするということに後ろめたさを感じる人が多いそうです。まわりの人から売名行為と見られるのではないか、脱税ではないか、さらには「あの野郎、もうけやがって」と思われるかもしれないことを気にする人が多いのでしょう。それでアメリカでは寄付の9割が個人なのに日本では財団や企業が9割で個人は1割のみなのだそうです。ボランティアのイメージは大分、改善されてきましたが、寄付についてはまだまだ金持ちの安易な行為と見られることが日本では多いようです。
 
こんな話をしているとき、米国の著名な投資家、ジョン・テンプルトンという人のことを思い出しました。彼は非常に長期にわたってすばらしい運用パフォーマンスを実現したことで有名な人です。もう90歳を越えていると思います。私もかってアナリストとしてこの伝説上の人物に接する栄誉を得ていました。その彼が「投資で成功するために最も大切なことは『祈ること』、『雑事を離れること』、そして『富を人々と分かち合うこと』である」と述べています。彼は1973年から自分の財産をはたいて基金をもうけ、世界中のあらゆる宗教の発展に貢献した人に対し賞を与えています。その賞金額はノーベル賞を凌ぐといわれ、第一回の受賞者はマザー・テレサでした。それは彼女がノーベル平和賞を受賞する7年前でした。結局、富によって人間が幸せになるためには、富を蓄積することに精神的満足をもたらすような目的がなければいけないということなのだと思います。
 
私も2000年、父が亡くなったときにいただいたお香典を寄付しました。歌手の森進一さん夫妻が主催するジャガイモの会のおカネと合わせてラオスのタオタンに小学校を建設しました。詳細は私のホームページを見てください。
 
<http://home.e06.itscom.net/okamox/fathertaotan.html>
 
時々、あの学校からどんな子供たちが将来でてくるだろうと思うことがあります。ラオスの安定と成長のために役立つ人間が育ってくれているだろうか、あるいは将来、世界平和に貢献するような子供が勉強をしているだろうか・・・。いつも楽しい夢を与え続けてくれています。そして座談会のときハッと気がついたのですね。この楽しい夢は寄付という投資に対する利息なのだ。それは満足感、幸福感を永久的に与えてくれる利息なのだと。おカネを使って投資したのだからリターンもおカネでなければならないというのは誤った固定観念でしょう。リターンを求めたい、富を蓄積したいと願うのは煎じ詰めれば結局、幸福感や満足感が欲しいからです。しかし幸福や満足はおカネだけで買えるものではありません。おカネで買えないものもあるのです。だから、寄付は幸福や満足という利息を生み出す投資だとも言えるでしょう。

結局、投資といってもおカネをどう使うかということに他なりません。 おカネを使うのは効用を期待しているからです。その効用は金銭価値のみで判断できるものではありません。すべてをおカネというものさしで判断しようとするこれまでの投資の概念には限界があります。事実、行動科学を投資理論に組み込む試みも盛んになってきています。多くの制約のなかで運用をしている機関投資家と違って個人投資家は自由に投資ができます。個人にとっておカネの投資先として寄付というのもこれから大切な対象になるかもしれません。


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e-hanashi pv20030927
日本人の性格を形成するもの

職業柄、外人さんと付き合うことが多いせいか、日本人の性癖や行動パターンについてよく考えさせられます。どうも日本人は変化を嫌うし、明確な勝者と敗者を作ることにいつも抵抗感があります。また、ホンネとタテマエに象徴されるようにウチとソトを区別する傾向もあります。なぜ、そのような性格が形成されてきたのか。その理由を私なりに考えてみました。そして、多分、それは日本が島国であり非常に温暖な恵まれた気象条件にあることに関係するのではないかと思うようになりました。

日本は非常に恵まれた気象条件のなかにあります。温暖ではっきりと四季が巡り、美しい自然や水、食べ物にも恵まれています。その上、美しい。山や川、木や草がおおい茂り、水や食物にも恵まれています。そう、日本人は自然に抱かれて生きているのです。日本人は「自然という守護神」に守られている。だから自然をカミとして崇拝する気持ちが昔から強いのです。自分の存在が無条件で守られているという発想から「環境を変えることに対し非常に消極的である」という性格が生まれます。と、言うかむしろ、環境を変えることに大きなリスク、不安を感じるのでしょう。この辺がたとえば、砂漠という厳しい自然のなかで生き延びるために環境と戦ってきた人々の気質との大きな違いでしょう。彼らは自分の生存確率を高めるために環境を変えて行かねばならなかった、しかし、日本人は自分の生存確率を高めるために環境を維持しようとした。だから「構造変化」と口では言ってもホンネではできるだけ穏便なものを好むということになるのだと思います。

それからもうひとつ重要なのは四季がはっきりしているということ。つまり、春がきて、夏になり、秋がくると冬になる、この循環のなかで我々のDNAは生き伸びてきているのです。もちろん外国にも四季のある国は多いのですが日本は特にこの変化が顕著でまた、我々の生活のなかにも溶け込んでいます。これは日本人の「耐える」という性格を形作っているのではないでしょうか。冬でもじっと待てば春になるように苦しくてもじっと我慢すれば必ず環境は良くなる。この性格がプラスに働くと忍耐力とか我慢強いということになります。マイナスに働くと「時間が問題を解決してくれる」という態度にもなるのです。「とりあえず様子を見よう」とか「塩漬けにしておけばそのうち何とかなるだろう」と言った問題先送りの行動です。

島国であることも性格形成に大きな影響を与えています。これは「ホンネとタテマエ」に象徴されるウチとソトを分ける傾向を作り出しました。ウチ向きにはお互いにホンネをさらけ出し、もたれあって「甘えの構造」を作っています。一方、ソトのことについてはできるだけ係わりをもたないようにする。ソトの人に対しては本当の意味で仲間として扱わないでお客としての表面的な付き合いにとどめる。これが島国であることからくる最初の特徴でしょう。

同じく島国であることはウチ向きのテンションを生んでいます。狭い国土にたくさんの人が住んでいる訳ですからいつも周りの人が何をしているかを気にします。日本人は隣の畑との境界線や、自分の周りの人のフトコロ具合などに結構、神経を使います。これが良い方向に向かうと競争力の源泉になります。80年代までのハイテク産業の輸出競争などはその好例でしょう。しかし、これは結果の平等主義や個性を発揮させにくい環境を生むことになり経済の活力を損なうことにもなります。また、「赤信号、みんなで渡れば恐くない」といった現象も生み出します。つまり、みんなやってるから違法行為でもいいのだというメンタリティーです。絶対的な善悪よりも相対的価値判断によるところが大きいのです。

日本という国土の置かれている環境が日本人の特性を作り上げてきている。それらは我々のDNAのなかで生きつづけている。そう思って今の日本の置かれている多くの問題を考えてみると結構、色々なことの説明がつくのですね。「ウチとソトの区別、ホンネとタテマエ」、「ウチ向けのテンションや結果平等主義」、「環境を変えたがらない、変化を好まない」、「我慢して待つ、待てば良くなる」、これらは日本人の心と体に深く入り込んでいるように思います。しかし、これほどまた、グローバル化に合わない性格もないように思います。グローバル化というのは、日本人が独占してきたこのすばらしい国、日本を、違う環境のなかで育ったDNAを持つ人々と共有するということでもあります。これは日本人にとっては大きなチャレンジだろうと思います。

しかし、日本人が育てはぐくんできた精神構造のなかで世界の人々の新しいカルチャーとして重要な要素になるものもあると思います。たとえば「和」という考え方。例えば「山川草木悉皆仏性」という思想があります。山や川、草や木、この世のすべてのものが仏性を持っている。すべてのものがこの世に存在する意義を与えられている。それらの人間と自然の相互依存のネットワークの中で我々は成り立っている。だから相手を犠牲にして自分が良くなるのではなく、お互いが成り立つように調和して行くことが大切なのだという思想です。資本主義というものが方向性を失いつつある現在、「和」とか「共生」という視点は新たなグローバルなパラダイムとなりうるものです。ともかく日本人として自らの精神構造をきちんと把握することはグローバル化が進むなかで非常に重要なことではないかと思います。


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e-hanashi pv20030918
ボサノヴァ

「明日できることは今日するな、あわてても仕方ない、ブラジルは広い」

私が1973年から1975年までブラジルのサンパウロに駐在していたときによく聞かされた言葉です。たしかにブラジルはでかい。ブラジルの北の端を札幌に合わせると南の端は赤道に達し、西端はチベットのラサになります。だからじたばたしたってしょうがない。そしてこの国の人たち、特にカリオカと呼ばれるリオっ子は基本的にオプティミストです。それもそうかもしれません。人間がどんなに芸術活動に励んでも足元にも及ばない美しい自然を与えられ、どこにでもあるバナナの木にはいつもたわわに実がなっていて、空腹を感じたらそれを食べればよい。衣服を着なくても凍えることもない。すばらしい海岸線が延々と続き、南国の太陽を燦々と受けて寝そべったりサッカーのボールを蹴ったり。そんな人生ですから。

だから宵越しのカネは持たない。いや、カネはいらない。稼いだわずかばかりのカネは地酒のピンガとカフェジンニョになってしまっても構わない。年に一度のカーニバルで踊り狂って憂さを晴らす。彼らにとって最大の自己主張のステージです。そんな何の束縛もない自由な生活をこの国の自然は与えてくれている。そして「心配しなさんな、ちゃんと守ってあげるから」と言うかのようにコルコバードの丘の上でキリストが両手を広げて立っている。

そんな街の路地の隅々にまで浸透している、いや、隅々であるほど濃厚に漂っているのがブラジル音楽。サンバ、ショーロ、サンバ・カンソン、ボサノヴァ。彼らのDNAにこのリズムと踊りがしみ込んでいるようです。ボサノヴァはサンバとジャズの融合したものと言う人もいるけれどそれは違うと思う。ブラジルのこの街角のむせかえるようなけだるさ、そして自然の美しさ、楽観的な人々にこそピッタリ合った音楽なのです。

ジョアン・ジルベルト。アントニオ・カルロス・ジョビンとともにボサノヴァの生みの親です。1931年生れだから72歳でしょうか。2003年9月16日、東京国際フォーラムA会場、5000席が満員。特に若い人が大勢いたのはちょっと驚きでした。6時開場、7時開演。アーティストの希望でエアコンはつけない。非常灯もつけない。しかし、そのアーティストがなぜか時間になっても来ない。これもブラジル・スタイル。やっと演奏が始まったのが8時10分。一応、演奏が終わりアンコールに答えたら、そのままギターの上にうつぶせになったまま約20分、固まってしまった。その間、会場の拍手はアンコールを求めて止まない。ようやく楽屋から人が出てきて肩を叩いて起こした。どうも寝ていたらしい。それからまた、すばらしい演奏がこれでもか、これでもかと続いて終了は11時。でもこの伝説のアーティストの演奏がナマでたっぷり聞けただけで本当に幸せでした。

まろやかでちょっと乾燥した音色の生ギターが洗練されたコードを心地よく、歯切れよくきざんで行く。時にささやくような、また、つぶやくような声にのってちょっとけだるいブラジルなまりのポルトガル語の歌詞が歌われる。そう、ボサノヴァは何てったってブラジルなまりのポル語でなければだめだ。どこにも力みのない自然な、あるがままの状態で歌とギターがひとつになる。これこそあの灼熱のリオの海岸に吹いている心地よい風。ボサノヴァはどう考えてもやっぱりあのリオのものだ。あの束縛のない、自然の絶対的なサポートに身をゆだねた人たちの音楽だ。

考えてみればいま、日本中が力みすぎているのかも。政治も企業もサラリーマンも学生も「こうあるべき」というテンプレートを与えられてそれにあわせて生きてゆくことを常に押し付けられている。政府は構造改革、企業はリストラ。子供は進学。みんな自分の意思と関係なく型にはめられ自分を失って行く。子供が時々、我に帰ってキレル。そのことすらもうテンプレートになってしまった。そのテンプレートを壊そうと行動がどんどん過激化してゆく。いつのまにか「こうしなければいけない」という基準が生まれその奴隷になってしまっている。ストレスに国中が押しつぶされそうだ。組織も個人もテンプレートからはみだしたって良いじゃないか。もっと自由に本当の自分になればいい。日本の歌手はどうしてあんなに苦しそうな顔をして眉間にしわを寄せて歌を歌うのだろう。もっと、肩の力を抜こうよ。もうがんばるのを止めようよ。最近、日本でもボサノヴァがブームになっているけれど、リオの浜辺のそよ風のような自由さをみんながボサノヴァに求めているのかなあと思いました。


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e-hanashi pv20030911
東海道完歩
 

私は今年の2月のはじめから万歩計を持ってできるだけ歩くことを心がけています。6月の終わりごろに会社の同僚から「健康ウォーキング」というホームページ(アドレスは下記参照)を紹介されました。このホームページでは簡単な会員登録をしてコースを選ぶと後は毎日、歩いた距離を入力するだけ。そうすると自分がどこまで来たかがコース上に示されます。私はその同僚が選んでいた東海道五十三次のコースを選びました。彼の方が一週間ほど早くはじめていたので最初は随分、距離が離れていましたが、「京都にゴールインする直前に追い抜いてやるぞ」と冗談などを言っていました。
 
始めて見るとこれが結構、面白い。別のホームページから広重の東海道五十三次の浮世絵を見つけ、新しい宿場に着くとパソコンの壁紙をその浮世絵にかえたりしてムードを高めていました。懸命に追いかけているうちに事件が起こりました。前を歩いていた同僚がテニスをしているときに肉離れを起こしてしまったのです。二週間にわたって杖をついて出社したほどでした。当然、歩数も激減しました。一方、私は前回、ご紹介したように家の近所を散々歩き回っていました。そしてとうとう、岡崎あたりで私が彼を追い抜いたのです。彼の足が治ってからは、さすが若いだけあって猛烈な追い込みがありました。でも何とか逃げ切り、9月3日、先週の水曜日に遂に私が京都の三条大橋にゴールイン。彼も二日遅れて到着しました。
 
このバトルは広く社内に知られるところとなりました。他の連中も興味を持ちみなが同時に出発して競争しようじゃないかということになりました。今回は四国一周八十八札所巡りです。東海道は495KMでしたが今度は実に1300KMという長丁場。参加者も四人、お遍路カルテットと名乗り、この月曜日、旅の幕が切って落とされたのです。完歩は来年の春でしょうか。長い道中の安全と無事、そして満願成就を祈念して壮行会も開きました。と、言っても単なる飲み会でしたけれどね。阿波、土佐、伊予、讃岐とそれぞれで地区優勝を決め、一番、優勝回数の多い人が総合優勝となります。私は優勝カップを寄贈することになっています。
 
バーチャルと笑うなかれ。旅はバーチャルでも本当にその距離を歩いているのですから。まあ、色々、難しいことの多いビジネス環境ですからこんなことも良いのかなと思います。同時に、このような面白い話にすぐ飛びついてくれる社員がいることをとても幸せに思います。

(健康ウォーキングのHPはhttp://gnl.cplaza.ne.jp/walking/index.htmlです。)

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e-hanashi pv20030819
ぶらりウォーキング旅

8月11日の週、私は夏休みをとりました。最初と最後の週末を入れて9連休。今年は特にどこかへ行く予定もなかったので、目黒区と世田谷区を中心にしたウォーキングに専念しました。地図とデジカメを持って「ぶらりウォーキング旅」としゃれこんだわけです。我家から歩いてゆけるだけでも数え切れないほどの「見どころ」がありとても面白い経験でした。以下、行程と感想を書きます。
 
第一日目:我家のある自由が丘から電車で等々力へ。そこから徒歩で等々力渓谷、玉川堤、上野毛公園、五島美術館(残念ながら休館中)、環八を瀬田まで行きそこで左折、玉川大師玉真院へ。ここの地下霊場は大日如来の胎内を模したものだそうです。本堂の地下の真っ暗な通路を手探りで進み四国・西国の霊場のお大師さまや観音さまを拝観します。一大曼荼羅が闇の中に展開するような感じでちょっと感動的でした。そして、二子玉川へ。そこからは電車で帰りました。
 
第二日目:自由が丘から目黒通りをずっと歩いて目黒まで。目黒通り沿いにもずいぶんおいしそうなラーメン屋さんができてきています。
 
第三日目:自由が丘から目黒通りを等々力まで歩きそれから大井町線に沿って歩き九品仏浄真寺をゆっくり見ました。さぎ草がきれいに咲いていました。碑衾(ひぶすま、目黒区の昔の地名)あたりはさぎ草で有名だったそうで、そう言えば私の行った碑文谷にある目黒第八中学校の校章もさぎ草をデザインしたものでした。その後、九品仏から自由が丘を越えて奥沢神社に参拝、帰宅。
 
第四日目:雨の中、自由通りを北へ歩き我が母校、東京都立大学付属高校の横を通って駒沢公園から246へ。桜新町で右折して長谷川町子美術館を見物。長谷川町子さんの人生が書かれた漫画が面白かったです。町子さんのお母さんに感服。人生の分かれ目での判断が実に大胆です。まさにグレート・マザー。そして用賀にでて電車で帰宅。
 
第五日目:会社に用事があったので雨の中、目黒通りから碑文谷公園に行き学芸大学を越えて駒沢通りへ。碑文谷公園の池では雨なのに噴水が高々と上がっていました。それから祐天寺を見物して恵比寿を越えて会社へ。一時間15分ぐらいでした。雨でビショビショ。
 
第6日目:自由が丘から二子玉川まで電車で。そこで降りて玉川堤通りにそって行き岡本民家公園へ。小雨でちょっと肌寒かったので囲炉裏の火が心地良い暖かさでした。それから静嘉堂文庫(休館中)の前を通って砧公園へ。そこで世田谷美術館を見てそれから用賀まで歩いてきて電車で帰宅。
 
神社の時に濃密な、また時にシャープな空気、土から湧き上がる蒸気、空が見えないほど生い茂った樹木から立ちのぼるエネルギー、その中で体中を震わせてなく蝉たち、雨宿りする猫たち、川で気持ち良さそうな水鳥、相変わらず忙しそうに地面を歩き回る蟻たち、小雨の中、子供にせがまれたのでしょう、公園でキャッチボールするお父さん、ちょと、オーバーかもしれませんが「何てすばらしい世界なんだ」って思います。楽しい写真もたくさんとれました。東京にもこんなに自然があるのですね。この休み中の総歩数は約10万歩。多分、距離にして60〜70Kmかな。歩かなかった三日間はプールでしっかり泳ぎました。しかもこの九日間、お昼はアーモンド四粒と桃を半分程度。私は朝食をとらないので実質一日一食でした。と、言うわけで体重も3.5Kg減らすことに成功。みなさんも休日に仕事を忘れて歩いてみてはどうですか?遠くまで行かなくても近所にすばらしい所がたくさんあることが分かりますよ。


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e-hanashi pv20030809
プレゼンテーションの技法

前回は「なんでも3ポイント法」で受け取る情報も発信する情報も3ポイントにまとめるくせをつけるとコミュニケーションが効率的になることを話しました。結局、人間って一回の送受信でごく自然に頭に入る情報は3ポイントがやっとでそれ以上はかなり苦労しないとできないのかもしれません。今回は「何でも3ポイント法」の活用編としてプレゼンテーションの技法を紹介します。これは私がかってアメリカで受講したメッセージ開発トレーニングで学んだものをベースにしています。もちろん、会議や面談などあらゆる情報発信の場面で使える方法です。

まず覚えておくべきこと、それは最初から我々の話に興味を持って聞いてくれる人などほとんどいないという現実です。まして、長時間にわたって注意力を持続して話を聞くことなどありえないのです。聴衆の頭のなかは他に考えなければならないことがいっぱい詰っていて我々の話の入る余地などほとんどない、そんなちょっとさびしい環境のなかでどうしたら良いプレゼンテーションができるか、その技法は以下の四つにまとめられます。

(1)聴衆の頭のなかに詰っている思考の層を最初に突破すること 誰も頭のなかには差し迫って考えなければならないことがわんさと詰っています。この分厚い思考の層を突き破るためにシンプルで明瞭、かつ、記憶に残りやすいメッセージをスピーチの結論として最初に話すことが必要です。結論を3ポイントにまとめて最初に話すことで思考のもやもやを突き破ってメッセージが脳に到達するのです。

(2)メッセージは聴衆の心に届く鋭いインパクトのあるものでなければならない その3ポイントは自分が本当に伝えたいこと、これだけは覚えておいてもらいたいと思うメッセージです。それは聞き手にとって直接的に関係のある情報でなければなりません。「俺には関係ないや」と思われたとたん、聴衆の意識は閉ざされてしまいます。相手の心を共鳴させるメッセージでなければなりません。

(3)メッセージは何度も繰り返さなければならない
最近の調査によると聞き手に新しいメッセージを覚えてもらうためには最低7回、繰り返すことが必要だと言われます。まず、最初に結論を3ポイントで話す。話をするときすべての話題を3ポイントのどれかに関連づけて話すと効果的です。そして最後に「それでは今日の話の要点を3ポイントにまとめてみましょう」といった形で復習をし、観客の記憶を固定させてプレゼンテーションを終えます。


(4)スピーチの最初と最後がカギ
注意力はすぐに途切れるものです。話の最初から最後まで注意を維持させることは不可能です。しかし、一般にスピーチの最初と最後だけは注意力が高まることが知られています。したがって、最初と最後に結論を3ポイントで述べると相手の脳にメッセージが浸透しやすくなります。


それでは3ポイントのメッセージをどのようにして作りどのように話せば良いのか。そのコツが次の四つです。

(1)差別化
聴衆は普通、あるテーマについて先入観をもっているものです。そこでまず最初に「あれ、自分が思っていることと違うな」という印象を持たせることが大切です。「こいつの話すことは自分が今まで聞いていたこととちょっと違うぞ、何かユニークな話があるかもしれない」と思わせ興味をひきつけることが必要です。

(2)自動運動効果
聴衆はある考え方の基準を一度、受け入れると後は自動的にその流れにそって自ら考えて行く傾向があります。暗闇で小さな光を見つめ続けるとそれが動き出すように見えます。同じように最初に明確なポイントを光として与えると、後は相手が自動的にこちらのメッセージを受け入れてくれます。

(3)Win/Win
話し手が望む事柄が聴衆にとってメリットがあることが分かるとその話に興味がわいてきます。しかもそれが話し手にとっても良いことであることを理解すると非常に効果的なプレゼンテーションができます。

(4)聴衆がすでに知っていることから始めよ

最初に聴衆の合意を得ると最後まで合意してもらうのが楽になる傾向があります。また、話の一部分で合意してもらうと残り全体の合意を得るのが楽になるのです。したがってまず、聴衆が合意しやすい内容について合意を得ると非常に有効です。

一般に日本人は西洋人よりプレゼンテーションが下手だと言われています。日本人はついつい「そんなこと言わなくっても分かるだろう」みたいな態度になりがちです。まあ、これまでは、特に日本人同士だとそれが通ることもあったでしょう。しかし、あいまいさがどんどん消えてゆく現在のビジネス・シーンではそれは通用しなくなってきています。むろん、異文化の人に外国語で説明するときなどには十分に考え抜いたスピーチが必要です。日本人は人種的にプレゼンテーションがへたなのではなくて、これまで大してそのようなことを考える必要がなかったということなのかも知れませんね。みなさんも大規模なものから小規模なものまで意見を発表する機会があると思います。このようなことを頭の片隅においてやってみてください。


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e-hanashi pv20030730
何でも3ポイント法

かって私はアナリストとしてたくさんの企業を訪問していました。年間に多分、300社以上は行っていたと思います。大変な量の情報を得るわけですがそのうちその情報の山のなかにうずもれてしまい何がなんだかわからなくなることがしばしばありました。そのとき、親しかったアメリカ人のポートフォリオ・マネージャーから教えてもらった方法がありました。それはミーティングの結果を次のミーティングへ行く前に三つのポイントに要約しておくという方法です。そしてその三つポイントをミーティングのメモの最後に書いておくのです。

これは非常に効果的な方法でした。どんなミーティングでももっとも重要なポイントというのはだいたい三つぐらいにまとまるものです。次の会議へ異動するタクシーの中などでその3ポイントを絞り込むのです。これをするとそのミーティングの内容を復習したことになり要点がはっきりしてくるのです。したがってその3ポイントは記憶に残ります。さらに後になって3ポイントを思い出すとそのとき絞り込んだプロセスが記憶によみがえり、そのミーティング全体の印象が浮かび上がってきます。

3ポイントでは足りないとき、それはまだ絞込みが足りないのです。もっと本当に重要なことを選別して、考えを熟成すればだいたい3ポイントぐらいになるものです。反対に重要な点が3ポイントもないとき、それはミーティングの内容が不十分だったかあるいは注意力が散漫だったのでしょう。だいたい一時間もミーティングをするならせめて3ポイントぐらいは重要なことを見つけたいものです。むしろミーティングをする際に相手の話の要点を探すことを意識すると中身の濃い会話ができます。

やりだしてみるとこの方法は非常に幅広い分野で応用できることがすぐ分かります。会社訪問でなくても会社での通常の会議や来客との面談でも利用できます。本やレポートを読んだらその内容も3ポイントにまとめておくのです。さらにこれは自分が情報を受け取ったときに頭を整理するためだけでなく、自分が情報を発信するときにも非常に有効です。つまり、情報を与えたい相手にどのような3ポイントを伝えるかをあらかじめ考えておき、それを強調して話をするのです。例えば、お客へのプレゼンテーションをする際には事前に3ポイントを決めておくのです。ビジネス上の重要なミーティングの前にはこれだけは伝えたいという3ポイントを頭に叩き込んでおくのです。e-mailも然り。これを私は「何でも3ポイント法」と呼んでいます。

2000年だったと思いますが私はクリントン元大統領のメディア対応コンサルタント、マイケル・シーハンという人のメッセージ開発トレーニングを受けたことがあります。詳細は次回、書きますがポイントは以下のとおりです。つまり、メディアと会うときはそのテーマに合わせもっとも重要な事項を最低二つ、最高四つ選んでおき、相手の質問に対する答えをすべてこの「Minimum 2 - Maximum 4」の項目に関連付けて答える。一つでは少なすぎてダメ、と、いって五つでは多すぎてダメ。Minimum 2 -Maximum 4です。しかも、そのメッセージは明確でインパクトがあり、また、それを何度も繰り返すことが必要であるというものです。これも3ポイント法を情報発信に活用している例と言えるでしょう。

私はプレゼンテーションをすることが多いのですがいつも以下の三つを相手の反応の前提として考えています。それらは「相手は私の話したいことには興味がない、相手の聞きたいことに興味があるのだ」、「相手は私が話したことの半分ぐらいしか理解してくれない」、そして「私が話したことのうち相手の記憶に残るのはいいところ3ポイント程度だ」ということです。と、いうわけで私は3ポイント法を情報の受信にも発信にも活用しています。

それでは今日のe-hanashiを3ポイントにまとめておきましょう。
@ 情報を受け取ったときはもっとも重要な3ポイントにまとめるクセをつける
A 情報を伝えるときにはもっとも伝えたい事項を3ポイントにまとめておきそれに沿って話す。
B 情報を受け取るときも発信するときも3ポイントを意識すると効率のよいコミュニケーションができる。みなさんもやってみてください。


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北海道旅行から幕末・明治を考える

7月の始めに北海道旅行をしました。函館から洞爺湖へ、そして余市を通って札幌に入りました。函館では土方歳三最後之地をお参りして五稜郭へ行きました。これは今回の旅行の大きな目的のひとつでした。そのために旅行の前に司馬遼太郎さんの「燃えよ剣」を読み直しておきました。言うまでもなく土方歳三の人生の話です。彼の生きたのは幕藩体制から大政奉還へという時代の変化の中で昔ながらの戦い方から西洋的な戦闘へという大きなパラダイムが変化する時代でした。その中で守旧派、新撰組の副長として剣を持って戦うことを貫いた土方の生き方は潔さを感じます。他人から見れば「敗者の美学」かもしれませんが本人には「生ききった人生」だったのでしょう。

しかし、幕末の小説などを読むとそのスピード感にはいつも驚かされます。ペリー提督がアメリカのノーフォークを出発してアフリカを回りインド洋を通って浦賀についたのが1852年。それから日本は大変なパニック状態になるのですが1867年には大政奉還がなされています。この間、わずか15年。日本のバブルが崩壊したのが1989年末ですが、すでに14年近くたっているのです。その間、構造改革が言われ続けてきましたがどれほどの進歩があったのか・・・。それほど当時の日本は危機感が大きかったということなのでしょう。同時に「言うばっかりで実行が伴わない」と批判されることが多い日本人だって「やればできるのだ」と言う事を痛感します。

ペリーが来日してその二年後には米国や英国と和親条約が結ばれ、1856年にはハリス総領事が日本へ着任。1860年には咸臨丸で勝海舟らが渡米します。1866年には薩長同盟の密約が結ばれ、そして大政奉還、王政復古へと時代が流れます。当時、活躍した人々、坂本龍馬、勝海舟、西郷隆盛、木戸孝允、高杉晋作、そして、近藤勇や土方歳三など、みんな、みんな、20台から30台の若い人たちでした。時代を駆け抜け早く死んでしまった人も、明治まで生きのび新政府の重職についた人も、みんな立場や考え方は違っても封建制度、幕藩体制に入った亀裂からエネルギーを爆発させた人々でした。時代の主人公が若い人たちだったのです。現在の日本の構造改革に必要なのも古い体制を突き崩し新しい世の中を作るという大きな夢を持った若者たち、平成の志士たちなのではないでしょうか。

明治時代のことを思うとスピード感とともに日本人の適応能力というか、他の文化や考え方を吸収して自分に合ったものにしてしまう能力にも驚かされます。面白い話があります。1871年に岩倉使節団がヨーロッパに渡り、帰国後、明治天皇に日本を欧化することの必要性を進言します。そのなかに食肉の解禁がありました。その理由は日本人の体格が西欧人より劣っているということでした。江戸時代まで日本人は四足の獣の肉を食べなかったのです。これを受け入れて明治天皇は1873年に初めて牛肉を食し食禁を解きます。驚いたことに、それからわずか数年後の1897〜8年ごろには日本にすき焼きとトンカツという日本独自の洋食が大流行します。一般にひとつの国の食生活を変えるのには数百年かかると言われますからこれは驚異的なことです。アッという間に西洋と日本の食材を合体して自らの口に合うものを作ってしまった。このバイタリティー!日本人最高の発明のひとつと言われるアンパンも同じことでしょう。

ところで今回の旅行でも各地でラーメンを食べました。函館では「ラーメン王さん」、札幌では「純連」と「玄咲」の合計三軒。特に「玄咲」のラーメンは感動しました。中華料理店系のラーメンはともすると上にのっている中華料理の方に重点が置かれベースのラーメンが軽視される傾向があります。しかし、ここの品は日本の地に根をおろしたラーメンと中華料理がしっかり合体している一級品でした。

ラーメンも外国のものを日本化した良い例です。開国後、沢山の中国人が日本に住むようになり中国式の麺を持ち込んだ。それを日本人は自分たちの口に合うようにつくり変えたのです。そして今日のラーメン文化ができた。考えて見れば日本の文化というものは海外からの影響を取り入れて積極的に自分たちに合うように日本化して作られてきたものでした。これは縄文時代、いや、もっと前からそうだったのだろうと思います。明治維新の時もこの能力が発揮された。戦後もそうだった。そして、グローバル化を迎えた現在もこの混沌とした状態の中から日本にあった新しい文化が生まれてくるのかもしれませんね。その担い手としていまの若者たちのなかから大きな夢を持った平成の志士たちが出現してくるのだろうと思います。

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アップル大往生

去る58日午後1040分、我が家の飼い猫、アップルが亡くなりました。享年198ヶ月。人間なら140歳に相当する大往生でした。昨年末以来、腎臓が弱ってきていたようで下痢がずっと続いていました。よく食べているのに体も痩せ細ってきていて心配をしていました。ゴールデン・ウィークごろから食事の量も非常に細り、連休明けになるとほとんど食事もせず、ミルクをちょっとだけなめる程度でした。亡くなる前日からはそのミルクもほとんど飲まなくなり、箱座りもできず、終日、ずっと横になっていました。当日、私は午後9時半ごろ帰宅しました。1030分お気に入りの飾りだなの下にいたのですが、そこでちょっと声をだしてないたので妻が側にゆき水を湿したものを口元へ持っていってやりました。しかし、首を横に向けて「いらない」というので体をなでてやっていました。しばらくしたら軽い痙攣がありそして呼吸がパタッと止まってしまいました。

歳に不足もないし、いかにもすべての臓器を使い切っての静かな幸せな死に際でした。まったく痛みや苦しみはなかったようでした。まさにうらやましいほどの大往生。ちゃんと自分の寿命を心得て食事も減らし眠るがごとくあちらの世界に行ったのを見ると、昔の名僧が自分の死期を悟って五穀断ちを行い静かに瞑想をしながら往生していったのを思い出します。みなさまからも時々、「アップルはどうしている?」などと聞いていただきお心にかけていただいていました。本人になり代わってお礼申し上げます。

アップルが我が家にきたのは1983年の1016日でした。友人一家とニューヨークの北の方にリンゴ狩りにいったときです。代金を清算する場所の側にそのリンゴ園で生まれた四週間目の子猫が4〜5匹ダンボールの箱に入っていたのです。「誰かかわいがってくれる人にあげます。ただし、只ではありません。一匹一ドルいただきます」とありました。娘が前から猫を飼いたいと言っていたのですがその場から離れなくなってしまいました。こうして彼は我が家にくることになったのです。

片手に乗るほどの小さな子猫を貴重品を扱うように手のひらに抱いて車で家に連れてきました。命名、アップル。リンゴ園で生まれたから、NYがビッグ・アップルだから。そして当時、アップル・コンピュータが快進撃をしていたからなどの理由によるものです。ソファーの背もたれの上を注意深く一歩ずつ歩きながらあたりを観察していました。アップルを飼いはじめるに際して我々家族には彼を本当に家族の一員として扱い最後まできちんと生活を共にしてやろうということが暗黙の了解としてあったように思います。

我が家がニューヨークから帰国するとき彼は我々と一緒に「手荷物扱い」で飛行機の客室に乗りました。座席の下の空間に入る高さのキャリアーの中に入れてきたのです。当時はまだ、検疫も甘くニューヨークの医者の証明だけですみ飛行場に留め置かれることもありませんでした。東京では我々と一緒に藤が丘、鷺沼そして自由が丘と住みました。まったくの家猫で外にはでなかったし、毎年、予防注射をしていたので非常に元気でした。病気らしい病気はまったくしませんでした。アメリカのミヤオ・ミックスというキャット・フードが大好きでした。ただ、日本では売っていなかったので私は出張のたびにお土産として一袋ずつ買ってきていました。これももう、お仕舞いです。

アップルというかわいい名前の割にはあまり愛想のよくない猫でした。わがままで強気、しかもプライドの非常に高い猫でした。何か気に入らないことがあったりすると突如として噛みついたり猫パンチをだしたりすることもしばしばありました。まあ、本来の猫らしい猫だったのかもしれません。同時にものすごく美しい猫でした。雑種でしたがピンク色の鼻、真っ白のソックスに手袋、エプロン。きれいな深いグレーの毛でした。顔もきりっとしてハンサムでした。立派なしっぽをピンと立てて歩く姿、窓際でじっと思慮深そうに外を眺める姿、何をしても絵になりました。体も大きく他を圧倒する独特の雰囲気のある猫でした。5年ぐらい前まではジャンプをしてタンスや冷蔵庫の上に飛び乗り、あたりを睥睨していたものです。

でもこの二、三年、だんだん活動がおだやかになって少しずつ体が細くなってきていました。娘が独立してから我々夫婦にとってのアップルは娘からの大事な預かりものでした。だから、彼がどのような最後を迎えるかは我々にとってもとても心配でした。そして実に彼らしく見事に、かっこよくあちらの世界に行けたことを本当にうれしく思っています。娘も札幌からかけつけ510日に世田谷の大蔵動物霊園で葬儀を行い荼毘に付されました。いま、我が家のリビングにあるマルク・シャガールのリトグラフの下に小さな祭壇を作りお骨を置いてあります。大好きだったミヤオ・ミックスとキューブのクリーム・チーズをお供えして花に囲まれています。私も朝と夜、般若心経を読んでやすらかに成仏することを祈っています。お墓は作らず夏か秋にでも家族でニューヨークへ行きお骨を生まれ故郷の土に帰してあげたいと思っています。

妻が言っていました。「アップルの呼吸が手の下で止まったとき、本当に、驚き、感嘆したのだけれど、これはアップルから私への最後のすばらしいプレゼントだったと思います。言葉や知識の上ではすべての生きとし生けるものは同じ命の価値を持っていると知っていたしそう思っていました。でも、あの瞬間に、本当に、猫という存在の中に全く私達人間と同じ命、魂の存在があるのだとはっきり実感することができました」。そうだろうと思います。猫という、そして人間という「カブリモノ」を脱いだら中身はみな同じ魂が存在しているのだ、たまたま、今生では猫の役、人間の役を果たしたけれど、人()生というドラマが終わったらみんな同じ魂なんだということを彼は教えてくれたのだと痛感します。

「我々はアップルを飼っていたのではなくて育てていたのかも知れないね」と私は家族に言いました。それに対して娘は「私はいつの間にかアップルに追い抜かれていたのかもしれない。ぽくっと逝ったように見えて実はものすごく回りを見た上で選んだ時期だったような気もする。 『あー、やるなあ、アップルさん。気付かないうちにとてつもなく人間(猫)できてたのねえー』って感じ」と言っていました。そうかも知れない。育てていたと思っていたアップルは魂としてずっと進化していたのでしょう。「やっと分かったかい」というアップルの苦笑いをしている声が聞こえてきそうです。

このHPのApple's Page(アップル写真館)もご覧ください。
http://home.e06.itscom.net/okamox/apple.html


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